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I. 剣 <ツルギ>
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 緑の天蓋に被われた暗い森の中を、剣は足音を潜め歩いていた。
 手に短刀を構え、体中に緊張を漲らせている。この森は「鎌首」の巣であった。その強い毒にやられて助かった者は殆どない。念のため持ってきた解毒剤も、ほんの気休めにしかならなかった。だから猫の中で最も強靭な体力を誇る者でさえ、この森にはめったに近付かないのだ。
 
 だが、今年はナギの実が少ない。薬師(くすし)の所にも既に無かった。丸二日探し歩いたあげく、仕方なくこの森へやって来たのだ。もう何日も高熱に苦しんでいる簓(ササラ)の体力が限界に近付いているのを彼は知っていた。どうしても、日のあるうちに、その実を持って帰らねばならない。
 束ねた黒髪の後れ毛をうるさそうにはらって、剣は神経質に辺りを見回した。
 
 猫にしては小柄だが、それもそのはず、まだ十四にしかならない。すらりと伸びた若木のような四肢も、未だ少年のものでしかない。身体には質の良さそうな一枚織りの上衣をまとい、腰を幅広の帯で締め上げている。帯の色は紫。巫子の血統を示す色だ。剥き出しの手足には、蛇除けの布をしっかりと巻き付けている。
 
 ブナの大木の陰に黄色い実を見付けて、剣はほっと息をついた。どうやらそんなに奥まで来ずに済んだ。その安心に一瞬の隙ができたのだろうか。自らの縄張りを犯され、濁った赤い目に怒りをたぎらせた一匹の鎌首が、右足を狙ってナギの葉陰から飛び出して来た。目にも留まらぬ一瞬の早業だった。
 
 だが威嚇の唸りを剣はとうに聞き分けていた。振り向きざまに柄で払い、一気にその首を落とす。まだ身構えたまま気配を探るが、どうやら他には現れないらしい。鎌首は縄張り意識が強い。この一匹を片付けたからには、少なくとも当座、この周辺は安全になったということだ。
 やっと緊張を解くと、剣はまだ動いている首をそっとつまみ上げた。牙に触れぬように注意して、腰の袋に落とす。薬師に託せば、これで貴重な解毒剤が手に入る。
 なるべく余計な音を立てぬようにかがみ込むと、彼はナギの実を集め始めた。これだけあれば次の秋まではもつだろう。まだ日は高い。急げば暮れ前に村に戻れる。


 平原を南北に分ける廣瀬(ヒロセ)の河、その西に広がる丘陵地帯に、猫族の部落は点在していた。中でもひときわ高くそびえる可南(カナン)の山、頂に族長が住むその中腹に、巫子の村はあった。族長の住まいへの近さが一族の位を表す猫の社会では、これはまずまずの位置であると言えた。尤も、頂を囲むように居を構える族長の右腕、黒一族の分家としては、当然の位置とも言えたのだが。
 
 巫子村への唯一の入り口である細道は、崖に張り付くようにうねって伸びている。軽い身のこなしで剣は崖を登って行った。上り詰めると風景は一変し、白い秋の花が咲き誇る、驚くほど美しい草地に出る。背後にそびえる急斜面を降りてくる僅かな水流が、中央にある澄んだ池へと流れ込んでいた。草地を囲むように、華奢な四つの小屋が並んでいる。それがこの村の全てだった。
 少し前まで抗争の絶えなかった猫の社会では、力の足りない、あるいはこの村のように数の少ない一族は、こういった不便な場所を選び住まうことによって身を守っていたのでもあったろう。また現巫子、簓に言わせると、この泉の周辺は「可南の精霊の集う場所」でもあるらしく、かつていつの時代か----初代の巫子がこの不便で狭っ苦しい場所に住処を定めたのは、当然といえばあまりに当然のことでもあるらしかった。
 
 だが、狭く不便ではあっても、巫子村はその豊かさを隠そうとはしていない。神卸(かみおろし)の仕事を一手に担う巫子族、というより巫子そのもの----は、黒の分家ということをおいても、全ての猫から畏怖に近い念を抱かれていたし、自然の脅威が何よりの天敵である猫の社会で、替わりのない巫子の血を引き継ぐこの村がないがしろにされることは、まずあり得なかった。神卸や祭事の度に各族から届けられる山ほどの貢物でこの村は溢れ返っていたし、四軒の小屋は可南には珍しい程の色彩に溢れ、巫子族に仕える女たちの手で、それぞれが繊細に飾り立てられていた。
 合図の口笛を吹くまでもなく、気配を察した女が剣を迎えに出る。ナギの実を渡し処置を頼むと、奥にある赤屋根の小屋へ、剣はそっと入っていった。


「剣」
帳の下ろされた寝台から細い声が呼んだ。
「簓、起きてたのか」
「ああ……さっき、目が覚めた……随分、寝てた?」
「二日。気分は?」
「大丈夫」
「そうか……」
 
 安堵の笑みを浮かべて寝台の傍らに腰を下ろすと、剣は髪を結わえていた組み紐を解いた。黒い髪が腰までも落ちる。鬱陶しいこの髪を彼は本当は切ってしまいたかったのだが----巫子の女たちがそれを許さなかった。長い髪は巫子族たるものの象徴だか何だかで。
 双子の兄弟ではあっても、剣と簓はあまり似ていなかった。黒の分家とは言っても、そもそも巫子の家には黒髪の方が珍しかった。中でも剣ほどの漆黒の髪と目を持つ者は他にない。体に流れる黒の血の濃さを示すように、彼は細剣、弓矢の腕も際立っていた。若猫の間で彼を負かす者は殆どなく、二年後に迫った成人の儀の際には、間違いなく黒の本家に迎えられるだろうと噂されていた。
 剣は、巫子ではない。この家に生まれても、黒い目を持つ者に巫子の力が宿ることは有り得なかった。巫子族としては有り難がられない黒の色は、黒の本家に入る為には有力な武器ともなるだろう。だから彼は、将来必ず黒家入りを果たし、族長の脇に地位を占める事によって一族を守ろうと決心していた。
 
 それに比べて簓は、その姿も力も巫子そのものだった。
 そして若死にした父親に似たらしく、生まれつき弱かった。
 神卸の後、簓は必ず熱を出した。子供の頃から、剣の記憶の中の簓はいつも寝床の中にいて、うっすらと優しい微笑みを湛えていた。
 弱者、不具者を極端に嫌う猫の社会で、それでも簓が大切に扱われていたのは、彼が巫子の血を受け継ぐ紫の瞳を持っていたために他ならなかった。柔らかな茶色の髪に囲まれたその顔は春草(はるくさ)の血統を思わせる透き通る白さで、いかにも巫子に相応しく、女のように優しく美しかった。
 簓は崖の道を滅多に降りることがない。四季の祭に辛うじて顔を出すだけだった。簓の力を必要とする者は、貢物を持って自ら崖の道を登って来るのが常となっていた。だからこの崖の上の僅かな草地が簓の知る世界の殆どだった。尤も巫子として生きる彼には、世界はそれで充分だったのかも知れないが。


 剣の姿を見上げて、簓は微笑んだ。
「夢を、見たよ」
「何の夢?」
「剣の夢」
「ふーん、どんな?」
「いい夢……。剣が、笑ってた。弓をつがえて。頭上に太陽が輝いてた。きっと、優勝するよ。秋祭の弓比べで」
「へえ、楽しみだ。当たるからな。簓の夢は」
 顔を見合わせて二人は笑った。
 子供の頃から、喧嘩の一つもしない、仲の良い兄弟だった。
 六年前、父である前巫子細螺(サザラ)を病で亡くし、姉が黒族に嫁いでからは、黒の庇護の下に有りながらもたった二人でこの一族を支えて来たのである。滅多に他の猫と会わない簓の、剣は唯一に近い話し相手だった。また無愛想な剣も、簓の前ではよく笑った。
 ナギの薬を持って、女が部屋に入ってきた。まだ眠そうな簓を残して、剣はそっと立ち去った。
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