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V. 黒矢 <クロヤ>
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 口笛を、三回。高く、そして低く。それが黒矢の合図だった。たとえ兄弟であろうと、他猫の家へ近付くときのそれが礼儀であり、礼儀を逸した者は訪ねる家から攻撃を受けることになるかもしれなかった。
 扉が開いて、黒葉が出てくる。まだ遠い黒矢に手を振る。
「羅猛、いる?」
 大声で呼びかける黒矢に答えず、黒葉は弓を引く動作をしてみせた。
「なんだ、弓を直しに来たのに。この間の狩りで折ったって言ってたから」
「古いのを持ってったよ……まあ、入れ」
 弾みを付けて、黒矢は最後の傾斜を駆け上った。


 黒族直系の三兄弟を知らぬ者は、猫の中にいなかった。
 十二年前の戦いで、黒族の前長、黒藤(クロフジ)は惨殺された。首をさらされて。
 その衝撃で妻の赤矢(セキヤ)も、まだ幼い末弟黒矢を残してすぐに死んだ。そして既に二十歳になっていた長子黒葉は、まだ十四であった黒里と共にすぐに黒族を嗣ぎ、春草に戦いを挑んだのだった。八年の永きを、ただひたすら羅猛の帰りを待って。

 末の弟は、母の名から一文字を取って黒矢と名付けられた。黒髪、黒目の兄弟の中でただ一人母に似た赤茶の目をしたこの弟を、兄達は溺愛した。黒矢は体躯こそ黒にしては小さかったが、俊敏な赤族の血を引く者らしく、狩りの腕は確かだった。そして手先の器用な彼は弓矢作りの達人で、どこまでも真っ直ぐに飛ぶその弓矢を、兄弟達も、羅猛も愛用していた。

 黒の長、黒葉は既に三十二になっていた。いかにも黒らしい強靭な身体は猫族の中でも際だったものであり、大剣を取らせて彼に並ぶものは無かった。名実共に族長の片腕であり、狩りや祭りの際には常に羅猛の右に席を取っていた。三人の妻と四人の子を持ち、頂の直下、ハンの茂みに居を構える彼は、今を盛りと誇る黒族繁栄の象徴でもあった。

 だが黒族は、春草とは違い、その生活は質素だった。所詮狩猟の一族だ。豪華な衣装や装身具は邪魔にしかならない。祭事にこそ各々の権力を示すため自らの紋章を織り込んだ絢爛な衣服を作らせたが、普段の生活はその殆どを自給自足で賄い、大きくはあるが質素な丸木作りの小屋に住んでいた。
 可南に住む多くの猫達にとって、権力とは、より有利な狩場を得ること、そして自分たちの行動を誰にも邪魔されないこと、その二つの意味しか持っていなかった。それがなかなか難事業ではあったのだが。

 その代わり、女達には贅沢をさせた。自らが殆ど着飾ることをしない猫の、その女を飾ることは彼等の力の誇示でもあった。地位のある女達は、緑から競って新しい織物を取り寄せ、その身を飾った。その代わり、よく働いた。春草の女達のように家事を放棄することは無く、料理も、普段の織物も、ほとんどを自らでこなした。黒の家でさえ、各女に側仕えが一人二人付いているに過ぎなかった。それでも多すぎる程だった。


 乳茶を注ぐと、黒葉は細工物を手に取った。祭りまでに仕上げるつもりの剣飾りだ。次男と暮らす末の弟と会うのは久しぶりだった。
「しばらく来なかったじゃネェか」
 きついその目が、弟を見る時には優しくなる。
「弓の練習をしてたのさ」 
 黒矢は腰を下ろそうともせず、部屋のあちこちを歩きながら見て廻っている。そして目を細め、弓を引く仕草をしてみせた。
「ああ……お前、夏にも剣に負けたからなァ。そろそろ一辺位勝たんと、誰も弓名人なんて呼んでくれなくなるよなァ。弓師になって、雪族にムコに入るか?」
 口ぶりだけせせら笑うような兄を、黒矢はむっとして睨み返した。
「今度は自信あンだよっ」
 そして肩に掛けていた新品の弓を外して見せる。
「最高傑作だぜ。これ使って的外す方がおかしいね」
「フーン……。見せてみな。道具が良けりゃイイって訳でもないが……確かにイイカンジの弓だな。相当力入ってんな」
「何たって唯一の腕の見せ所だからね。黒の末弟が技比べで一個も取れないなんてことになったらサァ……」
「技比べは弓だけじゃないだろうが」
「大剣と組み手はどうせ日刺だ。体格が違い過ぎるしよ。細剣は……やっぱ剣かなァ」
「ま、その通りだろうな。日刺は確かに良くやるよ。野心に燃えたぎった目ェしてな。アイツはちょっと将来が楽しみだね」
 黒矢は溜息をついた。
「早く成猫の部にも出たいよな……」
 黒葉は笑って、細工物を机の上に放り出した。
「剣に勝ってから言いな。だいたいお前、羅猛に弓で勝てるとでも思ってんのか? 百年早いぜ。俺だってまだ勝ったこと無いんだぜえ」
「黒葉はわざと負けてるんじゃないかって言ってるヤツもいるぜ」
「誰がわざとなんて負けてやるかよ……族長とは言え技比べは別だぜ……俺だってホントは悔しくてたまんねェんだからな……ま、アイツは羅族だからな。仕方ねえ。こと弓と細剣に関しちゃ、ナンか憑いてる」
「羅族、かあ……」
 少し不思議そうに黒矢はつぶやいた。彼ら若猫にとって、羅族、という一族は既に存在しないのだ。ただ頂に羅猛がいるだけだった。一人きりで。
「お前等は知らネェもんなあ……ヨオ、黒矢」
 ふいに黒葉はニヤリと笑った。
「何」
「賭しようぜ。お前が剣に負けたら、その弓は俺が貰う」
「えーっ、何だよそれ。そンなんネェよ」
「その代わり、お前が勝ったら、何でも欲しい物やるぜ」
「……うーん、何にするかな……」
「もう勝ったつもりかよ。何がイイ? そーだ、春香(ハルカ)でもやろうか」
「……黒葉、冗談にしてもタチが悪いぜ」
 黒葉は肩をすくめた。
「ああ。ジョーダンだよ。あの女はまだ手放す訳にゃいかねえしな。それにおめーには女はまだ早ェかな」
 挑発してくる兄を歯牙にもかけず、黒矢は必死に「賞品」に頭を絞っている。
「……そうだな、馬くれよ。二歳の白足」
「ゲッ、欲深いヤツ。あれは今一番の若馬だぜ。解って言ってんのかよ」
「もちろん」
「……いいぜ。乗った」
「……ウソお。黒葉、もしかして」
「ナンだよ」
「アンタ、もしかして、もう賭に勝ったつもりでいない?」
 黒葉は笑って言った。
「もちろん」


 秋の日は短い。急ぎ足で山を下りながら、その小さな家に、黒矢はちらりと目をやった。
 側女とは名ばかりの、人質としてやってきた春草の女。その気位の高い春水の姉に、黒葉はめったに近付かなかった。
 たとえ人質とは言っても、黒族の長、世の権力者である黒葉の側女である。女が不自由な暮らしをしている訳はない。ましてや春草本家の長女だ。日当たりのいい場所に立つ小屋は、可南ではめったに見られない色付きの石で建てられていた。
 四年前、この家にやって来た春草の長女のあまりの美しさに、可南の猫達は皆目を見張った。その姿は、まるで緑族の最高の彫刻士が彫った彫像のようで、「全く生きてる気がしない」と黒葉はいつも言うのだった。当時成人したばかりだったから、今年は二十歳になる。本来なら美しい盛りの筈だが、春草から連れて来た女一人を側に置き、殆ど外にも出ようとしない彼女を、黒矢も祭りの時位しか目にすることはない。めったに笑わないその顔は、年に数回、弟の姿を遠目に見る時だけ、夢見るように微笑むのだった。

 いくら美しくても、「生きていない」女には、黒矢も興味が無かった。そのまま小さな小屋の事は忘れて、彼は家路を急いだ。
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