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VII. 簓 <ササラ>
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 ある一つの記憶を境に、人生が二つに分かたれることがある。「それ以前」と、「それ以降」に。

 「それ以前」は子供の記憶だ。セピアの色がかかった、まるで前世のようにも思える遠い記憶。自分では無いかのような幼い自分が、薄ぼんやりと幸福そうにたゆとう景色----あるいは幸福ではなかったのかもしれないが、それさえも他人事のように思い出せない、悲しい事さえ甘く彩られて見える、遠い飴色の景色。
 「それ以降」、生は大人のものとして始まり、それからが人生というものなのだろうと思う。
 その日以来----簓は巫子として生きてきた。


 八歳の誕生を迎えたばかりだった。父親の命ずるまま、いつものように指の先で「紋」を組んでいたのだ。それはこの巫子家に伝わる紋なのだ、と父が教えてくれた。木の床に座ってひたすら紋を組む。そんなことを幼い簓は、ただ毎日続けていた。

 それはいきなり訪れた。木の床を伝って何かが身体に入り込んで来るような感覚があった。急激な眩暈に襲われ、自分がどこかに追い出されてしまうようで、簓は逃げようともがいた。喉が詰まって息が苦しい。冷たい汗が身体中を流れ、一気に体温が引いて行く。

 だがそれはもう自分の力では止められないようだった。もがいたつもりの身体は縛り付けられたように動かず、叫び声も口からは出てこなかった。目の端に父の姿があり、心の中で助けを求めたが、父は黙って息子の様子を眺めているばかりだった。やがて、内蔵を突き上げるように、自分の中から何かの声が沸き上がって来た。絞り出されるように口から出て来るしゃがれ声をもまた、簓には止めることが出来なかった。耳に聞こえて来るその言葉を自分が喋っているのだと、信じることが出来なかった。

 長かったようで、それはほんの僅かな時間だったに違いない。ふいに身体が空洞になり、簓は床の上に崩れ落ちた。深い疲労感があり、自分では身体を動かす事も出来なかった。
 父はしばらく動かなかった。が、やがてゆっくりと立ち上がり、簓を腕に抱き上げた。
「ついに来たな、簓」
 何か言いたかった。だが声を出すことが出来なかった。父親は、独白するかのように呟き続けていた。
「早かったな。私は十四になってからだった。お前はあれ達に気に入られたのだな。それがどんなに幸せなことか、お前にもそのうち解る。私の役目も、やっと終わったようだなあ……」
 それからすぐに病に倒れた父は、僅か二ヶ月後に、この世を去ったのだった。
 簓の初めての神卸。それは、父の死の予言だった。


 可南には今年初めての雪が降っていた。まだ冬の吹雪に変わることなく、うっすらと地表に落ちては溶ける。そんな淡い雪が簓は好きだった。今日は朝から、ただじっとこの雪を眺めていたのだ。
 ふいに懐かしい口笛を聞いて、簓は驚いて立ち上がった。七年前黒葉の正妻となりこの家を去った姉が、巫子の村を訪れることは珍しかった。女達が迎えに出るより早く、簓は部屋から駆け出ていた。

「つばめ! 元気にしてたの」
「あたしはいつだって元気よ」
 燕は笑い、弟を押し戻すように暖かい部屋の中へ入って来る。
「その言葉、そのままあんたに返したいわね……秋祭の後も大変だったみたいじゃないの。剣が慌てふためいてたわよ。あンまり弟に心配かけるんじゃないよ」
 燕に小突かれて、簓も笑った。
「剣は出かけてるんだよ……。悔しがるだろうな、燕が来たって聞いたら。どうしたの、何かあったの?」
「別に。ただ黒葉がね、祭りも忙しかったことだし、たまには弟達の顔でも見て来いって言ってくれたのよ。アイツはあたしには甘いからね」

 再び、簓は微笑んだ。黒葉がこの正妻を熱愛しているのは周知の事だ。成人してすぐに決まった輿入れを、燕は二十歳になるまで引き延ばした。幼い弟達のことが心配だったのだ。父細螺の正妻、剣と簓の母である緑玉(リョクギョ)は彼等が幼い頃に死んでいた。側女であった燕の母も既に亡く、側遣いの女達の他にこの二人の面倒を見るものはいなかったのだ。

 そんな燕のわがままを、黒葉は黙って受け入れた。仮にも黒の求婚を一時たりとも断ることを許したのも、彼女への思いの深さ故だったのだろう。父の死を理由に再び輿入れを遅らせようとした燕を、今度は剣と簓が必死になって止めたのだった。いくらなんでもそれ以上黒葉を待たせる訳にはいかなかった。

 巫子族特有の紫の瞳を、この姉も持っていた。濃い茶の髪を一つに編んで後ろに垂らしている。いずれこの姉か簓の元に、紫の目を持つ子供が生まれることだろう。その子供が再び巫子を引き継ぐのだ。そうしたら自分も父のように、役目を終えたことをその口から知る日が来るのだろうか。それも悪くない、と簓は思った。


「また夢見るみたいな目しちゃって」
 燕が笑っていた。この活発な姉はよく泣き、よく笑った。その笑みは簓の寂しげな微笑とは違い、精気に満ちた力強い笑顔だった。巫子色の瞳を持ってはいても、この姉にも黒の血が強いのかもしれない。祭りで彼女が踊ると、厳粛な巫子舞ですら明るい力に満ちたものとなった。
「ぼーっと雪なんか見つめて。ホントにいい夢でも見てたんじゃないの」
「まあね。雪はね、好きなんだ。空気が澄んで、色んな物が見える」
「すーぐ熱出すくせに」

 父が言ったように、簓の力は、次第に彼にとって苦痛ではなくなった。「あれ」はいつも簓の回りにいるようだった。彼の夢を訪れることもしばしばだった。目覚めていても、夢見心地にその姿を捉えることもあった。それは一人ではなく、様々な姿をして山のあちらこちらを飛び回っているのだった。そして、清らかな泉のあるこの崖上の平地を特に好み、集ってくるようだった。だからこそこの場所がその昔、巫子の村として定められたのだろう。神卸をしてそれが身体の中に入って来る感覚も、もう不快なものでは無くなっていた。普段は言葉を発することのない彼等が、その時ばかりは雄弁に語りかけて来る。自分が別の物に変化して行くような違和感にも慣れた。不思議な充足感が、その中にはあった。ただ、いつもそれは彼を消耗させて止まなかったが。

 簓は「あれ」の声を直接他の猫に聞かせることをしなかった。神卸はいつも一人の部屋で行うようにしていた。その内容が何であろうと、自分でその声を止められないことを知っていたので。そしてその言葉の内から、相手に伝えても良い事だけを選んで語るようにしていた。

 今では「あれ」と共にいるよりも、他の猫達と会う方が簓には苦痛だった。彼等の後ろに見える、影のせいで。
 猫達はみなその影を背負っていた。不吉な運命を背負う猫、過酷な死の色を持って生まれてくるもの、その猫に実際何が起こるかまでは、簓には見通せなかったけれども----。ただその影の色が、簓を落ち着かせなかった。猫達の淡い運命を、簓はなるべく知りたくなかった。だから、正式な儀式以外には、この村を決して出ようとはしなかった。


「わあ、相変わらすいいモン食べてるのねっ」
 運ばれて来た膳を前に、燕ははしゃいでいた。
「蜂蜜酒まであるっ。このゼータクもんっ!」
「今日はちょっと特別」
 簓は笑って言った。この姉といると、その朗らかさが自分にもうつってくるようで嬉しかった。
「燕が来たから。……それに、何言ってんのさ、黒の本家が」
「ウチは質素なモンよお。黒葉がそーゆー主義だからね。側女の方が贅沢な暮らししてんのよお」

 嬉しそうに蜂蜜酒を飲み干す姉の姿を、簓は微笑んで見つめていた。
 姉に暗い影は見えない。ただ白い光がその周りを暖かく包んでいるだけだ。きっと幸せな一生を送るだろう。だから簓は、いつも安心して彼女の側にいることが出来た。

 ふと、簓は顔を上げた。
「ああ、帰ってきた」
「ええ?」
「剣だよ。下にいる」
 やがて口笛が聞こえてきた。燕は目を見張った。紫の瞳を持ってはいても、女である彼女は巫子たり得ない。この弱い弟がどんな力を持っているのか、彼女にも計りは知れなかった。
「なんか……ますます凄いわね、あんた。どんどん力付けてんのは知ってたけど。そんなことも解るんだ。参ったね」
「双子だからね。剣だけだよ。何だか、解るんだ。それに、」
「何」
「……剣は、特別なんだ」
「へーえ……?」

 剣は、特別な猫だ。それは解っていた。
 将来、猫族に転機が訪れた時、その運命を左右するような立場に彼は立たされることになるだろう。そんな重い影を、剣は背負っていた。
 それが彼にとって善いものなのか、悪しきものなのかは、簓には解らない。
 ただそれが過酷なもので無いことを、簓は祈っていた。

「燕っ! 来てるのか?」
 剣の声がした。せわしない足どりで、駆けてくる。
 本当に久しぶりの、兄弟水入らずの夕が訪れた。
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