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VIII. 焔 <ホノオ>
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 狙いは外れなかった。割った氷の直ぐ下に、ハンザキの鈍く光る姿があった。
 剣は満足気に笑うと、冷たい水に両手を入れて、つるつると滑る身体を持ち上げた。なかなかの大物だ。冬も半ばともなると塩漬けの肉にも飽きてくる。狩りをしても、冬の獲物は肉も堅い。ハンザキの柔らかい生肉は、この季節には結構な馳走となった。
 背篭にいれて背負い上げ、流れから出る。水につかった両足がそろそろ痺れて来ていた。
 と、ふいに上の土手から、目の前に飛び降りて来た姿があった。驚いて、剣は一歩後ろに下がった。燃えるような赤い髪に赤い瞳の少女猫。
 焔だ。

「あーっ! ズルイっ、剣、それ、あたしが狙ってたんだからっ!」
 焔は腰に手を当て、剣をねめつけた。
「雪が止んだら、真っ先に取りに来ようと思ってたのに」
 剣は笑った。
「んな事言ったって、早いモン勝ちだぜ。俺が先に取ったの。あきらめな」
「あーあ」
 焔は大袈裟に肩をおとし、溜息をついた。
「期待してて、って黒葉に言っちゃったのになア……」

 焔は、黒葉の長女だった。彼女の母は、側女の赤茶。黒の娘にも関わらず、彼女は母の出身である赤族の特徴を全て備えていた。燃え立つ焔色の瞳と髪、そして可南の猫には珍しい白い肌。その姿はほっそりと小柄で、美しかった。だが性格の方は、黒の女そのもの。明るく活発で、成人を来年に控えているのに婚約者もまだ無く、剣や黒矢、男猫と狩りをするのが好きだった。

「まだまだいるだろ。探してみな」
「……そうね。こうなったら、片っ端から氷割ってみるか」
 焔は腕捲くりをして、不敵に笑った。
「……カゼひくぜ」

 少し眩しげに、剣は横目で焔を見た。一つ上のこの少女は、その美しさと性格で、可南の男達に非常に人気があった。来年成人を迎えたら求婚しようと、手ぐすねを引いている男達が多いのも知っていた。だが全ては黒葉が決める事だろう。彼は既に婿候補を絞りにかかっているはずだ。そして剣もその中に、おそらく含まれていることだろう。

 早く求婚しろ、と簓は勧めていた。側女の子とは言っても黒の長女だ。いずれ黒本家に入るだろう剣にとって不足は無かった。焔の婿ともなればいよいよ本格的に本家入りだ。どうせその地位を占めるなら早い方がいい。他に好きな女が出来たら側女に取ればいいのだ。

 剣もこの少女が嫌いでは無かった。他の可南の男達のように、彼女の美しさに惹かれもした。だが、それでも直接の求婚をためらっていたのは----。姉の姿を見ていたからだろうか。何年もかかって、本当に好きな男と結ばれた彼女を。

 剣は、まだ恋を知らなかった。黒矢や藍高のように少女達に文や贈り物を届けたこともない。そんな事に、今はあまり興味が持てなかった。誰かに求婚するにしても、それは本当に好きな女に、と、まだ子猫のようにぼんやりと考えていた。
 それに、まだあの家を離れたくなかったのだ。簓を一人残して。


 本格的に川に飛び込もうとした焔を、剣はあわてて止めた。
「よせって……やるよ。これ」
「え?」
 赤い目を丸くして、焔は剣を見つめた。
 獲物は、先に取った猫の物。そんなことはお互い百も承知だ。ごたくを並べてみたのも冗談の内。まさか本当にそれを自分の物にしようと、彼女は考えてもいなかった。
「……何言ってンのよ。いいわよ」
「いいって。持ってけよ」
「……簓に、食べさせてあげるんでしょ……」
「俺はまた探すから」

 剣は背篭を下ろすと、ずっしりと重たいハンザキを焔の篭に放り込んだ。一瞬重みでよろけた彼女を、腕を取って支えてやる。一つ上ではあっても、小柄な彼女はまだ剣より頭半分も小さかった。
 ふいに焔が頬を染めた。と、見えたのは、気のせいだったのかもしれない。その髪の色が、白い頬に映っただけだったのかもしれない。

「……じゃ、ありがたく、もらってく」
 焔は微笑んだ。
「黒葉に言っとく。剣がくれたって」
「……いいよ。そんなの」

 手を振って、焔は駆け出した。岩を伝い、器用に土手を上って行く。登り詰めた所で振り返り、もう一度手を振ると、その姿は消えた。残像のように、赤い髪が瞳に残った。
 ぼんやりと剣は、これが自分の初めての、女の子への「贈り物」なのかと考えていた。
 でもそれがハンザキだなんて。あまりにも色気がない。
 「簓が笑うだろうなア……」
 苦笑して、再び彼は冷たい水に入っていった。
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