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XVI. 春香 <ハルカ>
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 瞳が合った。
 ぼんやりと見つめていたので、目を反らすのに間に合わなかった。

 ふいに、その女の瞳が、羅猛を見つめていた。ずっと自分に向けられていた視線に、彼女はとうに気付いていたのだ。もう、何年も前から。女は視線に敏感な動物だ。気付かないはずがなかったのだ。我を忘れて食い入るように見入っていただろう自分の間抜けさを、あざ笑っていたものだったか。
 釘付けにされたように動けずにいる羅猛に、やがて彼女はゆっくりと微笑んで見せた。宛然と、勝ち誇って。それは目もくらむほど美しい、だが冷酷な微笑であった。もぎとるように、羅猛は目を反らした。そして苛立たしげに立ち上がると、婚礼の雑踏に姿を消した。春香は悩ましく首をかしげ、その背中を見送っていた。


「お楽しそうですね、春香様」
 珍しく微笑みを浮かべたまま歩いている女主人に、側の女が話しかけた。
「華やかな婚礼でございましたわね。春水様のご立派でしたこと。焔様も……お元気そうで、お若くて……」
 女は途中で口ごもる。所詮この婚礼を心から喜んでいる者は春草の中にはいなかった。当主が決めたことであるからにはと、表だって逆らう者がいなかっただけの話だ。
「あら」
 春香は女の方を振り返った。
「私、笑っていたのね……そう」
 考えぶかげにうつむいて、眉根を上品にしかめてみせる。
「ちょっと考え事をしていたのよ。そうね、華やかな婚礼だったわ。楽しかった、という訳ではないけれど。私はあんな下品な騒ぎは嫌い。でもね……春水の考えたことですもの。祝ってやらないとね」
「もちろんでございますわ! 春水様のことですから……きっと深いお考えあってのことですわ」
 去って行く春草の行列の後ろ姿を若干羨ましそうに見送りながら、女は大きすぎる程に頷いた。
「あとはあの焔という女次第だわね……。あの娘がバカであってくれればいいと思うわ」
「あら!」
 女は不満そうに振り向いた。そして小さく、あくまで上品に、鼻をならしてみせた。
「あまりお頭が足りないのも困り者ですわ……ただでさえ可南猫なんですし。春水様をあまり困らせるようなことになっては」
 春香は低く笑った。
「あの娘はまだ若いわ……婚礼の最中も好きな男の方ばかり見ているようではね」
 婚列を見送りながら、美しい緑の目を皮肉そうに細める。
「お前、覚えておくといいわ。賢い女というのはね。使えるものは、使い時を間違えずにきちんと使う女の事をいうのよ」
「はあ?」
「それも、何度もは使えない……きっとただ一度」
 春香の言葉は独白に近くなっている。女は黙って聞くことにした。
「でも私はきっと間違わずに使ってみせる。……いつかね。こんな大きな武器は、おいそれと使えやしないわ。大事に取っておくの。私と、春水と、そしてお父様のために」

 主人の微笑みを女はじっと見つめていた。彼女の横顔は、驚くほど父、春風に似ていた。それでは彼の血はこの長女に脈々と流れているのだ。純血に執着し、春草以外の猫を根絶やしにしようと、狂信的に一族に殉じたその血。
「きっと黒葉は気付いていないの。あれは気付きゃしないわ。そんなこと考えもしないもの……。ねえ、おまえ、知ってる?」
 春香はやっと女の方を振り向いた。
「はい?」
「春草と黒があんなに仲が悪いわけを」
「いいえ……それは」
「むかあしね、黒の長の女が春草の当主に寝取られたことがあったんだそうよ。まだ黒も春草も一緒に可北で暮らしていた頃の話よ。羅族なんてただの雑種、名前もなかったころの話だわ。黒はそういうの、何より嫌うのよ。いたずらに誇り高いから」
「そうだったんですか……」
「昔の話だわ。もう誰も覚えちゃいないでしょうけど、きっかけなんてそんなもの。女がからむとね、猫は気が狂うから」
 小さく、春香は笑った。彫像と評される女主人の青白い顔が珍しく上気しているのを、女は不思議そうに眺めていた。
「所詮女にとってね、武器はたった一つしかないの。春草にとっての最大の切り札よ……。あとは使い時。きっとそれは向こうからやってくるわ……」
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