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XX. 秋祭 <アキマツリ>
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 珍しく簓の調子が良さそうだったので、剣はウキウキしていた。
「このまま放っておいたら、アンタは初踊りを簓と踊りかねない」
 燕はそう言って、剣に無理矢理藍の娘をあてがった。まだ十一の彼女はそれでもありったけのシナを作り、剣をいささか辟易させたが、その義務が終わると彼は簓の元へ跳んで行き、嬉しそうに祭りの案内を始めた。簓とて、普段は神卸のあとは祭り見物所ではなかったし、ましてや剣と共に祭りを巡るのは初めてであったので、いつもの雑踏嫌いをおして、今日は素直に彼につき従っていた。

「ほら、枸杞餅。簓、食べたことないだろ」
「うん……。甘いの、これ」
「ああ。ウマいぜ。秋祭には絶対出るんだ。あと、これ。蕎麦餅も。これもこの祭りでしか作らないんだぜ」
「剣、いくらなんでも、こんなに食べられないよ……」
 日刺が赤音に首を振って言った。
「ありゃあ、ダメだ。嫁さんなんて、夢のまた夢だ」
 赤音は笑い崩れた。
「女猫達が、またボヤくわあ」
「変態は、ほっとけほっとけ」
 黒矢が後ろから二人の肩を叩く。彼は藍の長女と一緒だ。黒矢より二つ年上の彼女はもう黒の女房気取りで彼に付き従っている。
「踊ろうぜ。俺達は。せっかくの祭りじゃん」
 日刺と赤音も腕を組み、踊りの輪に混ざって行く。長かった戦いで可南猫の数が減っている今、猫達の婚儀はどんどん早まる傾向にあった。この分なら次の春にも、可南で新たに二組の婚儀が見られるかもしれなかった。


 春草の雰囲気は祭りの初めから、既に不穏だった。春水がその人員を厳選して連れて来たにもかかわらず、だ。踊りの輪に加わろうとした女達はことごとく若猫に引き留められ、春草の「陣地」に留まっていた。若猫の集団は煽るように酒を飲みながら固まって立ち、ヒソヒソと言葉を交わしながら雑踏を睨みつけていた。
 だが可南の猫達はもとより春草の陣地など眼中にない。それでなくとも今年は夏の簓の言葉通り、獲物は豊富で、木々の実りも豊かだった。収穫祭でもある秋祭は例年以上の盛り上がりを見せ、酒と踊りはつきる事を知らなかった。ただ春水だけがその様子を心配し、密かに側近の春芝を呼び寄せ、月が山に掛かったら例年より早く全員で引き上げる事を命じていた。それで多少可南の不興をかっても、それはそれで仕方が無い。だがやがて春草の若猫達は少女猫と共に木々の間に消え、そこで別の踊りの輪を作ったようだった。春水は一息ついた。この様子なら可南と悶着を起こす事もあるまい。彼は春芝に後をまかせ、一人雑踏に入って行った。

「剣」
 剣は振り返った。
「春水」
 剣の表情には、以前の不審な様子はない。ただでさえ今日は簓と一緒で恥ずかしいほど機嫌がいい。可南の猫にするように、ニヤリと笑って見せた。
「よお。お前は踊ンないの」
「祭りで踊ったことなんてないよ……簓、今日は、具合がいいの?」
「とても」
 剣と春水の顔を見比べながら、簓は春水に微笑み返した。
「だから、祭り見物。ほとんど初めてだから」
「そう、それは良かった」
 春水は剣の方を向き直った。
「何か、あれから色々あったらしいね。僕が君を呼んだことで迷惑をかけたみたいで。謝りたかった」
「相変わらず、耳が早いな。ああ、真白が話したのか」
 剣は笑った。
「まあ、ちょっとね。ま、ほとぼりがさめたら、そのうち行くよ。あのハナシは、そん時な」
「無理しないで」
 春水も微笑んだ。
「それじゃ、また。いい祭りを」
「ああ、ソッチも」
 ゆるやかに手を振って、春水は去っていった。目に付く祭りの場で、これ以上話すのは互いに避けたかった。


 黒の陣地には、久しぶりに焔が顔を見せていた。夏に娘の幸せぶりをうるさいほど聞かされていた後だったので、黒葉も赤茶もそう心配はしていなかったのだが、それでも今の生活をあらいざらい問い質すことはやめなかった。
「だからあ、何で黒葉がそんなに心配するのか、わかンないな。アッチは結構贅沢な暮らしよ。春水は相変わらず優しいし。今日の衣装だって、焔には白が似合うからって。自分で選んでくれたンだから」
「春水は優しくても、他はどうなンだ」
「みんな同じコト聞くのね。イヤなヤツもいるにはいるけど、それはドコにいたっておんなじでしょ」
「……可北は、最近どうだ。おとなしくしてっか」
 もとより、半分は春草の様子を知りたいがための「尋問」だ。
「別に、いつもの通りよ。あたしはあンまり当家から出ないし。……ただ、ちょっと」
「ちょっと?」
 焔は顔をしかめた。
「この前、また一悶着あったみたいじゃない」
「何だ? 俺は知らんぞ。いつだ」
「この間……つい、十日ほど前じゃないかな。詳しいことは知らないけど」
「何があった」
「ナンか、直系に近い家の息子が薬師呼びに行くときに、黒矢と日刺に捕まったらしいの」
「……で?」
「どうも、髪を切られた、とかナンとか」
「髪を、切られた?」
 黒葉は吹き出した。
「ヒョーキンなコトをやったもんだ。そンな事で、春草じゃ騒いでンのか」
「あたしも、そんなこと気にすることないって言ったんだけど。春水はともかく、若猫達が騒いでてさ。春草にとっちゃ笑い事じゃないらしいから。なんかいい感じじゃなかったな。ここんとこ」
「フーン……ま、もうあんまり馬鹿なコトはしねえように、俺からも黒矢に言っとくよ。そんな下らねえコトでお前に面倒かけたくネェからな」

 焔は微笑んだ。もし自分が今春草にいなかったら、黒葉はただ笑いとばすだけだっただろう。それだけでも春水のもくろみはある程度当たった事になる。彼女は春水が彼女に二つの山の架け橋になることを期待しているのを良く知っていて、それならば出来るだけ協力するつもりでいた。
「ナンにせよ、そんな悪い所じゃないって。黒葉も一回遊びに来てよ。あたしの暮らしぶりも見せたいしさ」
「俺が、春草に? そりゃあ、願い下げだね」
 そうは言っていても、黒一族の家族思いは猫の間でも随一だ。特に彼女は黒葉の秘蔵っ子だった。そのうち父親を呼び寄せる事が出来るだろう、と焔は確信していた。
「いいわ。でも、あたしは待ってるから」
 あまりしつこく誘うのも逆効果だ。早々にその話題をきり上げて、彼女は春草の暮らしぶりに話題を戻した。黒葉が嫌いそうな場所は適当に端折って。
 焔を主役に盛り上がる黒の陣地から影の薄い側女が一人そっと抜け出したのに、誰も気付いた者は無かった。


 羅猛は相変わらず一人で雑踏を眺めていた。さっきまで赤の若者達が群れていたのだが、彼等もやがて踊りに去って行った。普段は気軽に声をかけられない族長と言葉を交わす機会を猫達が逃すはずもなく、祭りの初めにはいつも彼の周りに輪が出来たが、踊りが佳境に入ると皆それぞれ自分の女達と去って行くのが常だった。尤も彼を誘いに来て踊りの輪に引っぱり込もうとする大胆な女達もいるにはいたのだが。だが彼はたまに黒や赤の、それも既に相手の決まった女達と申し訳程度に踊ってみせるだけだった。

「族長」
 だが今呼びかけたその声は、そんな女達とはあきらかに異質だった。そもそも羅猛がその声を聞き違えるはずも無かったのだ。
 間を置いて、彼は振り向いた。その金色の姿をそこに認めるのを、恐れるかのように。
「……春香」
 何か言葉を続けようとして、その言葉が出てこないのに彼は戸惑った。
「族長、お退屈そうですのね」
「いや」
「私は、退屈していますの」
 春香の声はまるで鈴を振っているかのように細く、美しく良く通った。
「私と、一曲踊っていただけませんか」
 一礼すると、春香はその細い腕を羅猛の方に差し出した。そしてゆっくりと微笑む。いつも羅猛が炎の向こうにすかし見ていた、夢のような微笑み。淡く、優しく、冷たい。

 我知らず立ち上がっていた羅猛の腕に、春香はそっと指先で触れた。まるでそこから血が逆流するような感覚を、羅猛は味わっていた。そしてその効果を、彼女は良く知っているようだった。
「ねえ、よろしいでしょう? ……ここでいいの。さあ、曲が変わるわ」
 最後は若干命令するように変わった彼女の言葉。その言葉を発した柔らかな唇。陶器人形のような顔を、羅猛はじっと見下ろしていた。
 そして、やがて彼女の手を、そっと腕から外した。
「……いや、悪いが、断る。……お前のダンナにでも、弟にでも、踊ってもらえ」
 そして背を向け、雑踏の方へと去って行った。

 羅猛の後ろ姿を、春香は驚いて見送っていた。
 その微笑みが、表情が、やがて憎しみを含んだそれへと変わって行く。美しいだけに、その顔に浮かんだ憎しみの表情には底知れぬほどの恐ろしさがあった。美しさ故に人を惑わす悪霊がいるのなら、それはおそらくこの様な姿をしているのであろうと思わせる程に。
 悪態をつこうにも、あまりの悔しさに、彼女は口がきけなかった。今までずっと彼を侮蔑し、利用してやるといきまいても見せ、その実、若き族長に本当に自分が抱いている感情を認めるには、あまりにも彼女は誇り高過ぎた。
「……羅猛」
 やっとの思いで、彼女は呟いた。
「……見てらっしゃい、今に、今に……」
 今に、の言葉の後に何も考える事が出来ず、彼女は肩を落とした。
「……殺してやるから」
 金色の姿を翻し、彼女は闇の中に消えた。


 黒矢と日刺、藍高は可南の若猫と合流し、酒の飲み比べをしていた。が、なかなか勝負がつかず、さすがに踊りにもいささか飽きて、今度は座り込んで女猫の品定めを始めていた。
「やっぱり、赤だね、女は」
 日刺が威張りくさって言う。
「顔もいいし、身体もイイ。何たって情が深いぜ。黒葉ん所の赤茶だって、いいトシだけどまだキレーだよな」
「はいはい。確かにキレーだよ、赤音も」
 藍高が笑う。
「でもよ、俺はやっぱ黒か藍の女かなァ。俺は黒髪が好きだね。なんかこう、秘密めいててゾクっとくる」
「秘密めいてる、ってんなら、緑とか春草じゃないの、やっぱ」
 黒矢が言った。彼はかなり出来上がっていて、藍高にもたれるようにぐったりと地面に座っている。
「なあーんだよ。お前、春草嫌いのクセして」
 若猫から上がった声に、黒矢と日刺が口を揃えて言う。
「女は別」
 みんなで、顔を見合わせてどーっと笑う。
「そーだよなーっ」
 月の次男が、酔った声で甲高く怒鳴る。
「ナンかいーよな。作りモンみたいでさ。ちょっと、一回やってみてーって気になるよなーっ」
「俺、踊ったことあるぜえ、春草のオンナと」
 日刺が自慢らしく言う。
「雪祭でさア、踊りの輪にいたからよ。側まで行って、さり気なく踊っちゃったりしたもんなア。手とかこう、やーらかいの」
「そりゃあナァ」
 藍高が苦笑して言う。
「普段なーんもしねェんだぜ。上の方の春草はさ。料理も洗濯もよ。さぞかし手も綺麗だろうよ」
「側女とかいーじゃん」
 赤星(アカボシ)が言う。彼は藍高よりも幾つか上の、赤の嫡男だ。
「正妻には良く働くオンナつけてさ。三番目の側女くらいにさ」
「黒葉ンとこは、そーだろ」
 日刺が黒矢を振り返った。
「どう、あれ、いいって?」
 再びどっと笑い声が起きる。黒矢は顔をしかめた。
「ああ、ありゃ、ダメだよ。春水の姉貴だろ。直系はやたら気位が高くってよ。俺ならもうちょっと下のオンナがいいな。もうちょっとオトナシくて、もっと若いの」
「無理無理」
 藍高が笑う。
「あのオンナ共が、たとえ多少位が低くたって、オメエなんか側に寄せ付けるかよ」
「おーっ、言ったな」
 黒矢がヨロヨロと立ち上がる。
「黒矢様をナメんなよお。赤のお嬢さんだって、藍の子猫チャンだって、みんな俺に夢中なンだからな」
「それは可南の中でのことだろ」
 赤星も面白がって、この少年猫を囃し立てる。
「悔しかったら、お前も日刺みたく、春草のかわいこチャンと踊ってみな」
「よおし、まかしとけ。春草一のかーいこちゃんを、引っ張り出して見せようじゃん」
「向こうの林でよお、踊ってたぜ。あいつら」
 日刺も目を輝かせた。春草の、それもまだスレていない少女猫達と踊ったとあれば、それはこの先もちょっと自慢出来る。彼等の春草嫌いは、所詮その程度の都合の良いものだった。
「行ってみようぜ」
「やめとけよ、メンドくせえ」
 藍高が顔をしかめた。
「まあた黒葉にナンか言われるぜ。俺はもうおセッキョーはこりごりだね」
「ばあか、今回は違うぜ」
 黒矢がいきまく。
「なんも悪戯しようって訳じゃネェんだ。こう、春草好みにだな。れーぎ正しく、やって見せようって言うわけじゃん。何も髪切ったりしねえぜ」
 何だそれ、と不審そうな顔をする藍高を後目に、日刺と黒矢は顔を見合わせてニヤリと笑う。
 赤星が勢い良く起き上がった。
「ま、そーいう事だ。堅いこと言いっこナシ。行こーぜ藍高。どうせ祭りの無礼講ってヤツだ」
「……そう、だな」
 藍高とて、この案に興味がない訳ではない。誘われて彼もすぐに立ち上がった。


 近寄ると、林の中からは楽しそうに笑いさざめく声が聞こえてくる。その打ち解けた雰囲気が、ますます酔った若猫達を勇気付けた。
「お前から行くんだぜ。解ってんのかよ、黒矢」
「おまかせあれ」
 黒矢は胸を叩き、そのままずかずかと林の中へ入って行く。皆あわてて後を追った。

 林の中央には篝火が焚いてある。その明かりに目をとられ、彼等は可南の猫達がすぐ側に近寄って来るまで気付かなかったらしい。いきなり影から手をとられ、小柄な少女は悲鳴を上げた。それに構わず、黒矢は大仰なお辞儀をしてみせる。
「えーと、お嬢さん。どうぞ一曲、ワタクシとお踊り、してくれ、あれ、踊り、くださいませ、じゃネェな、あれ、解んねーや」
 日刺や赤星達がどっと囃し立てる。
「だらしねーぞーっ!」
「しっかりやれよーっ!」
「ビビんなよお、やっちまえーっ!」
 酔いも手伝って、かなり無責任な応援も混ざっている。少女猫は再び悲鳴を上げ、黒矢の手を振り払った。雪祭で可南の猫達と踊ったりする春草でも跳んだ女達とは違って、ここにいるのは祭りもほぼ初めて、ましてや可南の猫達と言葉も交わしたこともないような、純粋培養の春草の少女達であった。その恐れおののいた様子にさすがの黒矢も少々腹を立て、若干乱暴に彼女の手を掴んだ。
「なんだよオ、気取りやがって、一曲踊ってくれって頭下げてんだろオ。ケチケチすんじゃネェよ」
「彼女から、手を放せっ!」
 横にいた春草の若猫が、一歩飛びすさって腰の細剣を抜いた。そのへっぴり腰はいささかも可南の猫達を恐れさせはしなかった。かえってその言葉の真面目くささが彼等の間に新たな笑いの渦を巻き起こした。
「いよーっ、カッコいいぜっ!」
「よっ、イロオトコ!」
「出来るモンなら、力ずくで守ってみな」
 彼等なりの誘いがどうやら失敗に終わったらしい照れもあってか、可南の猫達の揶揄はその若猫に集中した。祭りの席で、まさかこんなこと位で本気で切りかかって来る筈がないという油断もあった。

 こんなこと位で。可南の荒っぽい猫達には、それはいつも「こんなこと」に過ぎなかった。その「こんなこと」の連続が、可北に閉じこめられた彼等にどんな鬱屈をもたらしていたか、自由な可南の空気の中で育った彼等には、知りようもなかったのだろう。

 細剣がさっと宙を舞い、黒矢の腕から血がしぶいた。少女猫達は悲鳴を上げ、てんでバラバラに林から駆け出して行く。しばし唖然としていた黒矢は、我に返り、自らも腰の細剣を引き抜いた。だが一瞬呻き、取り落としそうになる。傷は思ったより深いらしい。武器に慣れない春草の若者は、加減を知らず思いきり切りつけて来たのだろう。
「ヤローっ!」
 日刺がこれも細剣を引き抜いた。
「こっちが下手に出てンのによおっ! 何考えてんだよテメーらっ!」

 春草の若者達が次々と剣を抜く。抜く度胸のない者は援軍を呼びにか、少女達の後を追って逃げて行った。黒矢を切ってあわてふためいている彼よりは腕に覚えのありそうな若者が、日刺の剣を受けとめた。何回か切り結ぶが、他愛もなく地面に組み伏せられる。
「腕落としてやろうか、それともその首かよっ!」
 新たな猫が後ろから日刺に切りかかり、それを赤星が細剣で払った。
「卑怯なマネすんじゃネェっ、テメーら本気でヤル気かっ!」

 さすがの日刺もこの時までは、相手を本気で傷つけるつもりは無かった。祭りに軽い喧嘩はつきものとはいえ、技比べ以外で武器を抜くのは堅く禁じられている。だがそこに、林の外にいた春草の若猫達が新たに駆け込んできた。先ほどの少女達に助けを求められたものらしく、既にその手に武器を持っている。
「やめろっ、武器を引けっ! 祭りでつまらネェことすんなっ!」
 黒矢の傷を調べていた藍高が後ろから叫ぶが、もう彼等はそれどころではない。相手がこう多勢では、日刺や赤星達も手加減をする暇がない。ましてや春草側には本気と脅しを見分けるほどの余裕はない。やむを得ず応戦する可南の猫達に腕や肩を切られ、何人かの春草が地に転がった。
 藍高は舌打ちをした。黒矢の傷は肩に近く、出血も激しい。衣装を裂いた布でそれをきつく縛って、藍高は彼に声をかけた。
「黒矢、大丈夫だな」
「……大したことネェよ」
「羅猛か、誰か呼んでくる。真白も。止められるもんなら、コイツら止めといてくれ」
「……今更止められっかよ」
 呟いた黒矢を後にして、藍高は駆け出した。大事になる前に間に合うことを祈りながら。もう大事は起こってしまったのかもしれないが。


 簓がいささか疲れて来たようだったので、兄弟は静かな林の外で休んでいた。誰も見ていないのをいいことに、肩を寄せ合って。普通は男女の猫がしけ込む位置だったのだろうが----剣はそんなことは一向に気にしていなかった。だが、こんな所を日刺達に見られたら、またしばらくからかわれるだろうことは解っていた。
 林の奥で何か騒ぎが起こったらしいことも、剣はしばらく気に止めなかった。だが、それが鋭い叫び声に変わり、その声の一つが日刺らしい、という事に気付き、彼はやっと立ち上がった。
「簓……」
「うん、何かあったかな。行ってみようか」
「俺が行って来るよ。お前、待ってろよ」
「僕も行くよ」
 二人は並んで歩き出した。木々の向こうに篝火がちろちろと見えてくる。そこでどうやら喧嘩騒ぎが起こっているらしい。祭りで多少の小競り合いはいつものことだが、細剣のぶつかる音までするというのは----。剣は急ぎ足になった。


 春草の若猫達は、すでに恐慌状態にあった。日刺達は致命傷を与えることはさすがにしなかったが、この人数差をあっと言う間に片付けられて、すでにその場所は血の匂いに溢れていた。細剣が通用しないとあってついに弓を取ったその若猫の目に映ったのは、林の奥から現れた黒の新手だった。その姿に向かって、彼は何を考える暇もなく弓を引いた。狙いを付けることさえ知らない彼の矢は、思いの外正確に、その的をめがけて飛んで行った。


 かき分けた枝の向こうにいきなり篝火があって、剣は一瞬目がくらんだ。簓が何事かを叫んで自分を押しのけてからも、何度か瞬きをしないと周りの状況が掴めなかった。
 林の中は、いきなり静けさに包まれた。剣が手を差し延べる間もなく、簓は静かにその場に倒れた。黒葉と羅猛と、そして知らせを受けたらしい春水が駆け込んで来たのは、ほぼ同時だった。
 場の状況を察して簓の方に駆け寄ろうとした春水の前に、羅猛が立ち塞がった。
「……今日の所は、引き上げてくれ。追って沙汰を出す」
「……解った」
 ちらと、立ちすくむ剣に目をやり、春水は春草達に手を振った。動ける者が動けない者を支え、彼等は林から、可南から、立ち去って行った。
「真白は」
 羅猛が振り返って黒葉に聞く。
「藍高が探しに行った」
 黒葉が手短に答える。
「そうか……」


 その騒ぎを、剣は知らなかった。我にかえった彼は、簓の上にかがみ込み、身体を抱き上げ、声を限りに名を呼んでいたので。
 何度目かの呼びかけに、簓はゆっくりと目を開いた。
「簓っ! しっかりしろよっ……! 今、真白が来るからな!」
 傷が深いのはすぐに解った。剣はうろうろと当たりを見回した。とりあえず、胸に刺さった矢を抜こうと手を伸ばす。その腕を、簓が掴んだ。
「いいんだ、剣……」
 割ににしっかりした声と、簓の手の思わぬ力強さに、剣は一瞬安堵しかけた。
 だが見下ろした簓の表情に、彼は凍り付いた。両親の死を看取って来た彼には、その不思議な表情の意味する所が、行き着く先が、直感的に解っていた。しかしそれを認める訳にはいかなかった。どうしても認めるのは嫌だった。
「簓っ……」
「いいんだ……僕は、知っていたんだ。知ってた。こんなに、早く来るとは、思ってなかったけど、ちゃんと、知ってたんだ。だから」
「簓、喋るな。喋らないでくれよ」
 剣の声は、悲鳴に近かった。知らせを受けた真白が父親と共に飛んでくる。剣を押しのけて傷を調べようとした真白の手を、今度は剣が止めた。
 簓は剣の手を離そうとせず、喋り続けていた。
「だから、剣、ごめん、君を、守りたかった。側にいて、守れればと、思っていた。君の、運命から。でも君は、もうたった一人で、それに立ち向かわなくては、乗り越えなくては、いけないんだ」
「……守ってくれたじゃないか、簓」
 もうそれは剣にも、その時が近いことは、解りすぎるほど解っていたので。
 だからその涙を止める必要はなかった。剣はそれが自分を、簓の顔を、濡らすに任せていた。
「でも、諦めちゃだめだ。剣、決して、あきらめないで。君は、強いんだから。みんなを、導いて」
「大丈夫だよ。簓。俺は大丈夫」
 大丈夫、大丈夫、と剣は呪文のように繰り返していた。

 ざっと傷を目で追った真白は、もうそれ以上剣を押しのけようとはせず、ただ脇に立って二人を見つめていた。羅猛が、黒葉が、側に来ていたようだった。それにも、剣は気付かなかった。ただ、大丈夫、大丈夫、と、その温もりが消えて行くまで、腕の中の細い身体を抱きしめていた。やがて、羅猛が肩にそっと手を置いた。それを待っていたかのように、剣は亡骸の上に崩れ、慟哭した。もう誰が見ていようと構いはしなかった。失って、二度と帰らない自分の半身のために。今は吼えるように泣くことしか出来なかったので。

 どれほどの時間がたったのか。やがて、簓を腕に抱えたままの自分を羅猛が抱き起こし、肩を抱えて小屋の方に歩かせているのを剣は他人事のように感じていた。その口から、まるで他人の声のように、つぶやきが漏れた。
「……許さない」
 今度ははっきりと自分の意志で、剣は闇に吼えた。
「絶対に、許さネェ、春草っ……!」
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