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XXVI. 過去 <カコ>
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 そこは、既に廃虚と化していた。
 隠れた春草の残党をいぶり出そうと、かつて、家々には火がかけられたのだ。
 僅か半年前まではここに「生活」があったのだ。猫達が日々眠り、遊び、語らい……。だがその痕跡は、もうどこにも残ってはいなかった。

 剣と焔は、こっそりとこの場所にやって来た。黒の家へ行く前に、どうしても焔がここを訪れたがったので。剣をここに引っ張って来るのは焔としても気がひけたのだが……。だが剣は一向に気にしていなかった。彼も又焔の脇で、遠い目をしてこの廃虚を見つめていた。

 当主家の残骸の前で、焔は足を止めた。金目の物は全て強奪され尽くしたそこには、だが可南の猫達が何も価値も認めなかった当主家の遺品が残っていた。春水の愛した瑪瑙色の陶器の椀は幾つかに砕け、土に埋もれていた。灰にまみれたその破片を、焔はそっと一つつまみあげ、長い上衣の裾で丹念にぬぐった。
 万感の思いに浸る焔を、剣は邪魔しなかった。そこにあるのは彼女の過去。今更ぬぐい去ることも、取り返すことも出来ない時間。そんな時間の大切さと空しさを、彼は良く知っていた。

 焼け残った中庭の椅子に、彼は腰を下ろした。
「ここで、春水と話したナァ」
 焔が振り返って微笑んだ。
「何の話、したの? 剣。春水と」
「うん……ニンゲンの、こととか」
「ああ、やっぱり」
「へえ」
 剣は意外そうに焔の顔を見つめた。
「やっぱり、って? ニンゲンのこと?」
「うん……あんまりあたしには話さなかったけど。剣と、その話したって。嬉しそうに」
「………」
「興味あったんだと思う。何の為、って言うより、秘密好きな子供みたいに、興味持ってたんじゃないかな。それで、剣とその話が出来たのが、嬉しかったんだよ。きっと」
「なあ、焔。聞いていいか?」
「なアに」
「あのさ……愛してた?」
「……」
 焔は考えこんだ。剣は笑った。
「遠慮しないでいいんだぜ。俺は焔の過去にナンか嫉妬しないから。……多分、ね」
 笑って、焔も答えた。
「……わかんないの」
「だから、遠慮するなって」
「ホントなのよ。わかんないの。ホントに。でも、嬉しかった。優しくしてもらえて。それに、あたしといて春水が嬉しそうだったから、あたしも嬉しかった」
 優しい過去。それが焔を美しい女に変え、そしてそれが空しいもので無かったという証に、今、簓がいる。だから剣はそれで良かった。いいと思おうと思った。ここで怨念を残しながら死んでいった猫達にとっては、それは罪に近い感情なのかもしれなかったが----。
 だが剣には、死者達に自分の幸福を邪魔されるつもりは無かった。今回はたまたま自分が勝者になった。だから自分は勝ち誇って幸福を追う権利がある。いつか自分が敗者になり、誰かにそれを譲らねばならない日も来るのかも知れない。
 それは、その時のことだ。


 春はまだ浅く、日の落ちるのも早い。可北には既に黄昏の予感があった。
 やがて焔は白い手で柔らかい灰を掘り起こすと、椀の破片を埋めた。小さな、埋葬。
「サヨナラ、春水」
 焔は呟いた。
「ありがと、あたし、幸せだった」
「これからもっと幸せになるさ」
 剣が言った。
「やだあ、カッコイイ」
 焔が笑った。剣も笑って頭を掻いた。
「……んー、俺も、ちょっとそう思う。でも」
 さすがに顔が赤らむのが自分でも解る。
「俺、焔のこと、アイシテルから」
「あたしもだよ」
 何でもないことのように焔が言い、それがかえって剣を照れさせた。
「ずっと、愛してたよ。今も。剣は、知ってるハズだよ。きっとみんなも知ってる。春水も知ってた。あたし、隠したことなんて無いモン」

 過去の思い出に浸りながら、一方で堂々とそんなことを言い放つ焔を、剣は唖然として眺めた。やはり、女は不思議な動物だ。そして、強い。きっと彼女は過ぎた時間の何もかもを、自分が生きて行く養分に変えて行ってしまうのだ。そのたくましさが剣は好きだった。可南の男猫達は、いつも死の危険の傍にいる。狩りを糧としている限りそれは変わらない。だから彼等は、自分が死んだ後も強く生きて行く女達が好きだった。

「焔ってナンか、理想の嫁さんって感じ」
「なによ、それ。いきなり」
 焔が笑う。この笑顔を、絶やすことのないようにしよう、と剣は一人思った。
「帰ったら、見せたい物があるんだ」
「なあに?」
「字、読める?」
「春水から、少し教えてもらった」
「そう。じゃ、帰ったら見せるよ。二人で読んだら、楽しいと思う」
「読むって、本?」
「ああ。春水の」
「ふうん」
「行こっか。もう日が落ちるから」
「うん」
 焔はすぐに立ち上がった。名残惜しい様子は、既に無い。
 馬の上から消えゆく可北を振り返ったのは、剣の方だった。
 可南に帰れば、婚儀の準備が二人を待っている。
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