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XXIX. 遠雷 <エンライ>
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「この意味が、解ンない」
「どれ……」
「ありす、って何?」
「ああ、それ、俺もわかんない。誰かの名前かな。何度も出て来る」
「あー」
 焔は思いきり足を投げ出し、溜息をついた。
「やっぱり、半分も解んないね。解りそうな所も、言葉の意味が掴めないし。もーやだ」

 焔の言葉とは裏腹に----彼等は最近暇さえあれば、この本を----春水の残した人間の本を手に取っていた。可南頂での密談を知るよしもない若夫婦は、いたって平和な秋の夜長を好奇心旺盛に過ごしていた。尤も秋は冬支度で何かと忙しい。今では一家を支えている剣も毎日狩りに出ており、その趣味に割ける時間は限られてはいた。

 剣は立ち上がって簓をあやし始めた。猫の男達は通常子育てには手出ししないのだが、彼は事あるごとに小さな息子を構いつけていた。甘やかし過ぎて駄目になる、と焔が心配する程に。
「簓あ、いー子だなお前。あんまり泣かないし。賢そうな目してるよなー。きっとお前の叔父さん以上の巫子になるぞ」
「でも」
 焔はいささか不安そうに言った。
「紫の目してたって、巫子の力があるとは限らないんでしょ。燕にだってないし……それに実際は巫子の血入ってないし。みんな期待しちゃってるけど、大丈夫なのかなぁ……」
「大丈夫」
 剣は自身たっぷりだ。
「燕に力が無いのは、女だからだよ。男でこの目持ってるヤツは、みんなその力があるのさ。だいたい元々巫子族ってのは、黒と春草の血が交ざって出来たっていうぜ。その理屈だと、この目は本当は不思議なことじゃ無いんだ。……それに」
 彼は息子にほおずりした。
「お前、簓の生まれ変わりだもんナァ。絶対大丈夫」
 焔は微笑んだ。実際は自分の血をひいていない息子を剣がこんなに愛してくれることに不満のあろうはずがない。いくらその子が剣の兄と同じ目を持っていたにせよ----血のつながりを重んじる猫族には珍しい事だった。

「人間てさ」
 焔が言った。この頃二人の間では、その言葉で始まる会話が増えていた。
「なんか大きな戦で滅びちゃったんだね。昔はこの世界が人間で埋まってたなんて、信じられない」
「この世界、かあ」
 剣も遠い目になって呟いた。
「平原のもっと遠くや……死の山の向こうにもいたのかな。……猫とか、人間とか。今でもいるかもしれないナァ」
「死の山って言えば」
 焔が目を輝かせた。
「羅猛って、行方不明の間、死の山にいたんでしょ。その向こう側も見たことあるかもしれないよね」
「ああ……。その間の事って聞いたことないけど。黒葉は知ってるんじゃないか?」
「あんまり良く知らないみたいだよ。ただ、死の山にいたってこと位で」
「そっかあ……。一度聞いてみたいよなあ」

 二人は黙り込んだ。好奇心旺盛な所も、この二人は良く似ていた。
「あのさ、焔」
 やがて剣が言った。
「俺……行ってみたい所があるんだ。忙しい時期に、悪いんだけど、雪降る前に……。二三日、留守にしていいかな」
「ええ?」
 焔は不審そうに顔をしかめた。
「二三日って……そんな遠く? どこ?」
「ああ……」
 剣は言い難そうに言葉を切った。
「その……平原」
「平原?」
「見てみたいんだ」
「何を?」
「……城壁」

 焔は黙り込んだ。これだけ共に人間の本を読みふけった後であるのだから、実際に彼等の住む場所を見てみたいという剣の気持ちは解り過ぎるほど解ったのだが----。だがそれと同時に、昔剣が人間に殺されそうになった話も聞いていた彼女としては、その危険性も充分感じていた。

「実際平原には下りないよ。山伝いに南から回って……ちょっと遠回りになるけど、丘の上から見るだけにする。絶対に側には寄らないから」
「でも、危ないわ」
 焔はゆっくりと言った。
「そんな事にはならないと思うけど、人間に会ったらすぐ逃げる。アイツ等動きも鈍いらしいし、大丈夫だよ」
「……」
 剣がこんなに粘ることも珍しい。それだけ、彼の好奇心は抑え切れないまでに膨れ上がっているのだろう。

「ホントに、近くには行かない?」
「モチロン。俺だって、危険な目に遭いたいわけじゃない。ただ……見たいだけ。遠くからでも」
「……じゃ、いいよ。ホントはあたしも行きたいけど」
「それは、ダーメ。お前は簓と留守番」
「ずるいなあ……」
「ちゃんとみやげ話聞かせてやるから」
 既に剣はわくわくした表情を浮かべている。妻と子供がいるとはいえ。所詮まだ成人前の若猫なのだ。仕方なしに焔は立ち上がった。
「いつ出るの? 泊まりになるんだったら、その支度もしなきゃ」
「ああ……あんまりみんなに知られたくないんだ。もうすぐ祭りだろ。その準備であたふたし始める前に」

 秋祭。そんな時期になったのだ。あれから、全ての発端となった簓の死から、まだ一年も経っていなかった。既に何年も過ぎたような気がする、と剣は思った。
「……だから、出来れば、明日」
「あしたぁ?」
 焔は目をむいた。
「早いよ。支度が間に合わない」
「支度なんて、いいよ。まだ雪もないんだし、木の上で寝るだけ」
「ダメよ、朝晩は冷えるんだから。毛皮もちゃんと持ってかなきゃ。食べ物も」
「途中で狩りするから」
「そんなコトしたら、時間が無駄になるでしょお」

 焔は立ち上がり、あたふたと動き回り始めた。剣は目を細めてその様子を見守った。
 彼女は黒の女らしく、良く働いた。家を支えるのは実質的には初めてとは言っても、母親から黒流の家の切り盛りをじっくりと仕込まれて来たのだ。子育てに忙しい中で織物、縫い物もこなし、小屋の中はいつもきちんと片づいていた。多少春草で生活した影響もあってか、部屋には趣味のいい飾り物がちりばめられ、他家の女達も感心して覗きに来るほどだった。贅沢な巫子の家に育った剣はもちろんそれが嫌いではなく、まだ所帯を持たない若猫達を自慢げに招いたりもしていた。


 翌朝は、小雨になっていた。焔は心配して剣を引き留めにかかった。
「ねえ、雨だし……止むまで待ったら? 危ないよ。馬も疲れるし……」
「大した雨じゃないよ。それに、止むの待ってたら祭りにかかっちまう。俺達けっこー忙しいんだぜ。祭り近くなるとさ」
「でも……」
「馬も雨には慣れてる。かえってみんなに見られなくていい」
「そう……かもね」
 焔は心配しながらも馬に荷物をのせる手伝いを始めた。と、遠くで鋭い光が空を横切った。続いて鈍い音が空気を揺らす。
「雷……」
 それほど近くはない。危険はないだろうが、あまり縁起のいい話でもない。剣は巫子の家の生まれであるくせに迷信深くはなく、秋の遠雷は不吉だと言ってみた所で耳をかさないだろう。焔は頭を振って家へ入って行った。
「それじゃ、行って来る」
 剣が簓を抱き上げる。いつものようにほおずりをし、焔に渡そうとする。
「あれれ……」
 簓が、剣の上衣を掴んで離さない。剣は嬉しそうに微笑んだ。
「俺と離れたくないって? そーかそーか……俺もだよ、簓」
 もう一度ほおずりをして、今度はいささか強引に焔に抱き取らせた。その小さな手が父親から離されると、簓は激しく泣き出した。
「あーらら。解るのかナァ、俺が留守するって」
「多分、そうね」
 焔は無理に微笑んだ。そして腕の中の簓をぎゅっと抱きしめた。それでも簓はなかなか泣き止もうとしなかった。

「じゃ、後よろしく」
 焔の頬に軽く口づけをして、剣は馬に飛び乗った。手を振って去って行く後ろ姿を、焔は不安そうにいつまでも見つめていた。
 遠雷が、また光った。
 
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