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XXX. 再会 <サイカイ>
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 兎取りの罠に足を踏み入れてしまったのは、大きな失敗だった。
 ここまで猫達が狩りに来ているということがあるのだろうか? ここは可南からはるか東。既に城壁が、巨大な姿を彼方に見せていた。
 剣は舌打ちし、それ以上傷を広げないように、注意しながら罠を外した。そして改めて視線を北の彼方に投げる。
「城壁、だ……」


 あれほど遠くにあってなお広大に地を埋めるそれを一体どうやって作ったものか、彼には見当が付かなかった。石の壁、なのだろうか? 高く、広く、横に広がった灰色の壁。巨大過ぎて距離感が掴めない。近くに寄れば案外小さなものなのだろうか。いや、そんな筈はあるまい。

 あの中に、人間が住んでいるという。弱く、平原の生き物と闘う力を持たない彼らは、その壁に護られて暮らしているのだという。尤もそれも猫の間の伝承でしかない。春水の本も城壁のことには触れていないようだった。そもそも人間たちがその巨大な壁を同じ「城壁」という言葉で呼んでいるのかさえはっきりしない。
「向こっ方の丘と、同じくらいあるモンなあ……」
 帰ったら焔に詳しく話してやらねばならない。彼女はきっとしつこく説明を求めるだろう。その形を細部まで頭に留めようと、剣は改めて目を凝らした。

 城壁の西側から、何か背の高い物が空に突き出ているのが見えた。木? のはずがない。もっと高いし、四角い形のまま空に伸びている。明らかに自然の物ではない。それは人間の住まいなのだろうか。そんな高い場所にどうやって登り降りをするものか。だがあとはただの四角い壁。何の色もなく、灰色にくすんでいる。どこかに入り口があるものなのか、その場所からでははっきりとは見えなかった。

 剣は頭を振った。城壁を見た所で何の謎が解ける訳もない。ただ新たな疑問の数々が首をもたげるばかりだ。だが、そんなことは始めから解っていた。ただ今は、その途方もない大きさを目で確認しただけで満足だった。いや、本当はもっと近くへ寄ってみたい気持ちもあったが……ここで満足せざるを得なかった。

 彼は、自分の傷ついた足に注意を戻した。思ったより深いらしく、血が地面にまで流れている。首巻きを割いて、しっかりと巻き付けた。だがまだ血は止まらない。歩いてみるとかなりの痛みがある。これ以上遠くに行くのは危険だ。そう判断し、剣は帰宅を決めた。ここまで来るのに既に二日以上かかっている。平原に下りるのを避けたくて、丘伝いに遠回りをして来たためだ。これ以上遅くなれば、焔が心配を始めるだろう。

 剣は微笑んだ。何日か外で過ごした後に、焔と簓の待っているあの小屋へ帰る事を考えるのは悪いものではなかった。帰ると決めたからには一刻も早く帰りたかった。焔と簓の祭りの衣装も、もう出来上がっている頃だろう。焔には、白。それが彼女には一番良く似合う。簓には、巫子族の紫の帯をあつらえてやった。もう巫子家に届いているだろうか。さぞかし女共が狂喜乱舞していることだろう。そして剣は----今度の祭りは彼にとっては成人の儀だ。既に黒葉が、本式の黒の正装を緑に注文済みだ。三人で初めて迎える秋祭は、また特別なものとなりそうだった。だが今はとりあえず、無事に家に帰ることを考えなければ。

 剣はかがみ込み、兎罠を調べた。人間が使っているものとはとても思えない。明らかに白山の猫の手による道具であった。だが、可南から日帰りの出来ないこんな場所で、誰が狩りをするのだろう。それとも、雑種猫達の住まいがこんな場所にまで広がっているとでも言うのだろうか。それは信じ難かった。
 剣は首を傾げながら罠を元に戻し、馬の所まで戻ろうと立ち上がった。来るときに狩りをして、食料を節約しておいて良かった。帰りは今あるだけで充分だろう。足に傷を負って狩りをするのはいささか辛い。


 僅かな物音、生き物の気配を感じたのはそんな時だった。しっかりとした足音だ。剣は即座に細剣を抜き、油断無く身構えた。人間だろうか。あるいはこの罠を仕掛けた者か。それが猫なら何の心配もないのだが。
 盛り上がった起伏の向こうから、その影は現れた。見るからに光族と解る、女。おそらくは踊り子だろう。水汲みの桶を持っている、ということはこの近くに部落があるのかもしれない。剣はほっとして警戒を解いた。光の部落なら、怪我の手当と、一夜の宿を頼むことができるだろう。それにしても可南からこんなに遠く、光が居を構えているというのは不思議ではあった。
 だが彼の安堵をよそに、その女は剣を見ると、悲鳴を上げて水桶を取り落とした。そのただならぬ形相が、彼に再び警戒心を起こさせた。
 そして女の背後に、剣はもう一つの影を見た。


 彼は自分の目を疑った。
 これは、幻覚だろうか。出血のせいで、あり得ない夢を見ているのだろうか。
 それは、長身の、金色の。

 にわかには信じ難い思いで、剣は立ち尽くしていた。
「なんで……」
 春水は、彼をじっと見下ろしていた。


 その姿は、一年の月日を経たにもかかわらず、驚くほどに変わっていなかった。長い上衣に、緑の帯。硝子細工のような緑の目。それはまるで当時のまま、死後の世界から蘇って来た悪霊かとも思われた。ただその微笑みだけが、美しい顔から消えていた。
「こんな所で……まさか、君に出会うとはね」
 小さな呟きが、変わらぬ声で、懐かしいとさえ思える声で、剣の耳に届いた。
「あれは……アンタは、あの時……」
「あれは、光嚥だ」
 春水は低く言った。
「……顔が……」
「光には、色んな技術があってね……。それでも、アイツが崖から飛び降りて自分の顔を潰さなかったら、ごまかしきれなかっただろうな」
「………」
「僕は別に、死んだって構わなかった」
 春水はその腰から、ゆっくりと細剣を抜いた。
「それを待ってさえいた……アイツさえ、あんな死に方をしなければ。だが、アイツは僕に生きろ、と言った。春草のために生きろと。だから、今、死ぬ訳にはいかない」

 落ち着け、剣は自分に言い聞かせた。
「……残念ながら俺も、ここで死ぬ訳にはいかネェな」
 死ぬ訳にはいかなかった。妻と息子が彼の帰りを待っているのだ。生きて帰ることが、今の彼の義務だった。ちらと、頭の隅を疑問がかすめた。焔と幼い簓の事を、春水は知っているのだろうか? 知っているのに違いない。仮にも光と共にいるのだ。光は、可南でも「噂屋さん達」と呼ばれるほどの情報通だったのだから。
 細剣を抜いた二人の姿に光の女は再び悲鳴を上げると、起伏の向こうに駆け去って行った。おそらくは援護を求めてだろう。仲間が何人いるのかは知らないが、急がなければ、たとえ春水を倒したところで、逃げ道を失う恐れがある。怪我をしているのは明らかに不利だった。早いうちに勝負をつけなければ。他の光族……おそらくは男共が、駆けつけてくる前に。


 初めに打ちかかったのは、剣だった。そしてすぐに彼は、この一年春水がどこでどう暮らしていたにせよ、彼がただ遊んでいた訳ではなかったことを知った。あの戦いでもただ一人可南を手こずらせた彼だ。どこでどう光嚥と入れ替わったのかは知る由も無いが、あの時一度だけ、混乱の中細剣を交わした相手は、確かに春水だった。その時の細剣の手応えを、剣はまだ覚えていた。細剣とは思えないその重さ。一体、この細い身体のどこからその力が出るのだろうと思わせた太刀筋。それに彼は一層磨きをかけた様子だった。だが、剣にとってももう一年が経っている。この決死の勝負が簡単に付きそうにないことは、互いにすぐに知れた。

 すぐに二人の身体は血にまみれ始めた。それは苦しい戦いでもあった。二人の力が近いだけに、相手に傷を負わせることは出来ても、致命傷にまではなかなか至らない。体力勝負に持ち込めれば、自分が有利なのだが。だが、その前に光の援軍が到着する恐れがあった。春水相手で互角だ。ここに他の手が加わっては、とても勝ち目は無い。春水の体力が尽きるのを待つわけにはいかなかった。

 焦りが、一瞬身体を走ったせいか。春水の太刀を避けようとした足が、怪我をした足が痛み、つと滑った。体勢は立て直せなかった。肩に鋭い痛み。剣は仰向けに倒れた。
 春水の次の太刀はもう目の前にあった。体をひねってかわそうとした胸に深々とその切っ先がめり込むのを、剣はその目で見ていた。それはなぜだかひどくゆっくりした動きに見えた。

 剣は立ち上がろうとした。だが、立つことは出来なかった。緑の柄、春水の細剣は彼の体を突き通し、地面にまで届いていた。激しい苦痛が、胸から広がって急激に全身を襲う。耐えきれず、剣は叫んだ。だがそれは声にならず、彼の頭の中で永遠の木霊となって響き続けた。

 帰りたい、声は叫んでいた。帰りたい。何処に? 焔の待つ、あの小屋に?
 もしかしたらそれはもっと昔、簓の座っていた雪の庭。 
 それとも銀木犀の狂おしいほどに香る、可北の園。その秋の盛り。

 春水は苦しげな息をつきながら、剣のことを見下ろしていた。霞んで行く目にその姿がぼんやりと映った。いつも、どこにいても、その姿は、周りの風景からほんの少し浮いて見えたのだった。まるで、本当の自分の場所を探してさ迷う神話の動物のように。今も、そうだった。他の風景が暗黒に変わっても、その影だけがうっすらと光を纏い、剣の目を焼いた。そして春水がやがて彼に背を向け、遠ざかって行くのを剣はまるで惜しむような気持ちで見つめていた。光が、消えて行く。彼の目から。やがて世界は闇となった。

「……簓……」
 自分の声を、再び遠く、剣は聞いた。それが幼い息子を呼んだものなのか、それとも懐かしい兄の名を呼んだものなのか、もう自分でも解らなくなっていたけれど。
 やがて、瞳の奥から本当の暗黒が訪れて来るのを、剣は感じていた。それは、間違いなく死、そのものであると知れた。やり残したことは----おそらく沢山あった。だがもう間に合わない。全てが、もう遅く、そしてやがて痛みも消え、剣はやっと安心して自分を闇のその手に委ねた。そこで、会えるのかもしれない。失くして来たもの。その全てに。

 それは、剣に震えるような歓喜さえ与えてくれる予感だった。
 その予感に優しく満たされて、彼は呼吸を止めた。



一章・完
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