<第二章> home  2章index
005.  Awakening
←back next→
 どれ程の時が再び経ったのか、剣には解らなかった。

 目覚めたのは、つるつるとした壁に囲まれた明るい部屋の中。周りには誰もいなかった。彼はほっとして、まずゆっくりと体を動かしてみた。手も足も、普通に動く。身体には、白い更紗のような布地をゆったりと纏っている。寝台の脇にある椅子の上に、彼の衣服が綺麗に洗われて畳んであった。細剣も弓矢も一緒に置いてある。それはアルネの反対にもかかわらずリーガがそうさせたのであったが、それが剣をかなり落ちつかせた。ここで武器を取って何が出来ると思った訳でもないが、生まれてからほとんど細剣を手放したことがない剣にとっては、それが側にあるのとないのとでは当然心の持ちようが違ってきた。

 動揺していなかった、と言ったら嘘になる。だがここでうろたえてはならない、と自分に言い聞かせてもいた。相手に殺意や敵意はなさそうだった。そうでなければわざわざ助けたりする筈もない。そもそも何らかの行動を起こすとしても、身体の動かない今は無理だ。

 立ち上がろうと、してみた。かなりの努力を要したが、彼は何とか床の上に降り立つことが出来た。そのまま改めて部屋を見回す。薄い黄色の、平らな壁。高い天井。寝台の側にあるつるつるとした白い棚に並べてあるのは----「本」だ。背表紙の言葉はほとんど理解できなかった。その他には、同じく白い石のような物質で出来た机と椅子、そして自分が寝ていた寝台、広い部屋だが家具はそれだけだ。床は柔らかい絨毯。


 ここは----あれほど彼が好奇心を燃やし続けてきた、人間の世界なのだ。
 落ち着いて眺めてみれば、家具や寝台は彼が普段使っている物と、材料は違うにしても機能的には何ら変わる所がない。言葉も通じた。相手の言うことが自分に全て理解出来たことが、逆に驚きでもあった。
 あの黒里に似た人間は、まず食べて、眠れ、と言った。それなら猫も人間もたいして変わりはない。

 一方の壁から光がもれていた。壁一面に布が垂れ下がっている。光はその隙間から漏れてくる。剣はよろよろと壁に近寄り、布を引き上げてみた。
 目がくらんだ。
 始めに目に飛び込んで来たのは、空だった。果てしない、何処までも続く、空。雲。そして太陽。その遥か下に、家々が並んでいた。人間の、家なのだろう。石を固めて作った数々の建造物が、間に僅かな木々を挟みながら延々と並んでいる。春草の優美な石の家とは違い、その風景はひたすらに灰色だ。煙突から立ち登る煙。地平に近く、高い塀が見える。
 それではあれが、城壁だ。自分はやはりその中にいる。そしてここはおそらく----あの南の丘から見えた、背の高い建物の中なのだ。
 強い眩暈を感じて、剣は後ずさりし、その場に座り込んだ。吐き気がした。目の前に硝子の壁があるということは解っていたのだが、その硝子は、猫の家にあるそれと比べてあまりにも澄んでいた。まるでそこに何も遮る物がなく、自分が今にもその高さを落ちて行くような恐怖に襲われて、彼は目を閉じた。
 気配。剣は素早く目を上げた。白い扉が壁に吸い込まれるように横に開く。
 「彼」が入って来た。


「剣!」
 その人間が馴れ馴れしく自分の名前を呼ぶのに驚いて、剣は立ち上がろうとした。だが立つことは出来なかった。足が空しく床を滑った。
「……もう歩けたのか? 驚いたな……ああ、動かないで。無茶だよ」
 思い出した。「リーガ」だ。
 リーガは側に寄ってくると、軽々と彼を抱き上げ、寝台に戻した。剣は抵抗しようとはしなかった。
「そろそろ目が覚めてるんじゃないかと思って。食事を持って来た。口に合わないかもしれないけど、食べてみろよ。腹空いたろ?」
 そう言われてみると確かに腹が減っていた。減っているどころではない、飢えていた。だがそれよりも、剣の好奇心のほうがよほど飢えてもいた。
「……ここは、城壁の中だ」
「城壁? ああ……そうだよ。もっとも僕たちは、フェンスと呼んでいるけど」
 リーガは笑った。
「君は、冷静なんだな。驚いたよ。人間なんて見たこともなかったんだろう?」
「いや……ああ」

 知りたいことは山ほどあったが----何から訊いて良いかわからず、そしてまだ警戒心が解けきれなくもあり、剣は黙り込んだ。だがとりあえず、言葉は通じる。予備知識として知っていたこととは言え、実際に言葉を交わしてみると、それは新たな驚きでもあった。焔とあの本を読んで置いて良かった。実際にはその知識はここでは何の役にも立ちそうになく、目に映るもの全てが彼の想像を超えてはいたが、とりあえずあの本の難解さそのものが、剣に人間の社会の突飛さを教えていた。ここは城壁の中なのだ。人間の住む場所になら、どんなに訳の解らないものがあっても別に驚くべきことではない。

 剣の沈黙を、リーガは別の意味に取ったようだった。彼は立ち上がった。
「俺がいたんじゃ食べづらいよな。別に変な物は入ってないから、ちゃんと食べろよ。不味いかもしれないけど、我慢して。体力の回復には、栄養をとるのが一番だから」
 それは剣も良く解っていた。そしてリーガがここにいては食べ物に手を出す気になれないのも事実だった。だがその前に、どうしても知りたいことが一つだけあった。立ち去りかけたリーガに、彼は後ろから声をかけた。
「俺は、死んでたね」
 リーガは立ち止まり、ゆっくりと振り返った。
「……いや、死にかけてはいたけど……」
「死んでた。そのくらい、自分でも解る」
「………」
「人間は、死なないのか? 死んでも、生き返る事が出来るのか?」
 リーガはためらった。この真面目な目をした猫に嘘を付くことはしたくなかった。だが彼に解るように、説明出来るだろうか?
「君は、死んで間もなかった。僕が君を見付けた時は、君はまだ暖かかった。怪我でそんな風に死んだ場合は、時間がたっていなければ……生き返らせる事が出来る、場合も、ある。でもそれは希だ。君の場合は、運が良かった。致命的な傷は一カ所で、他には損傷も少なかった。だから」
「………」
 リーガは黙った。それ以上、説明することは出来そうになかった。それで剣が納得するとも思えなかったが、やがて剣はゆっくりと頷いた。
「……そう」
 リーガはそのまま部屋を去った。

 ここにいる間に人間について、出来る限りのことを調べて帰ってやろう。
 リーガの姿を見送りながら、剣はそう決心していた。
 彼がその言葉通り、本当に剣を帰す気があるなら、の話だが。
 だが黒里に似たあのリーガという人間を、剣は半ば信じる気持になっていた。あいつはきっと、嘘をつくような奴じゃないだろう。黒がみなそうであるように。
 そして金属の盆を引き寄せると、不味そうな食物を物凄い勢いで片づけ始めた。
home  2章index ←back next→