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II.  嫉妬
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「剣……また行くの?」
「ああ」
「今日は、降りそうだよ。冬支度ももう充分あるし。やめておきなよ。危ないよ」
「いくらあっても、あり過ぎるって事はないだろ」
「剣……」
 焔の呼びかけを無視するように、剣は扉を閉めた。

 秋が過ぎ、冬になっても、彼はほぼ毎日狩りに出ていた。朝早くから、日が暮れて地面も空も見えなくなるまで。
 だがその勤労ぶりにも拘らず、彼が獲物を持ち帰ることは希だった。焔にも、何かが狂い始めている事は解っていた。だが剣と春水の再会を知るよしもない彼女には----剣は妻に対しても、他の可南猫にしたと同じように、獅子に傷つけられて平原の片隅を動けなかったと語るだけであったので----その原因が解る筈もなく、ただ毎日を、ありもしない想像に身をやつしては、苦しく吐息をつくだけであった。

 何より、あれほど溺愛していた息子を剣がその手に抱かなくなったことが、焔を悩ませていた。剣は妻には若干型通りではあったものの相変わらず優しく接していたが、焔が無理矢理押しつけない限りは簓をその手に抱こうともしなかった。朝晩の日課となっていた息子へのほおずりさえ、ぴたりと止めてしまった。
 焔は再び深い溜息をつき、揺り篭に近付くと、夫の代わりのように息子を激しく抱きしめた。簓は思い切りよく泣き出した。まるで何かを恐れるように。


 猫達の目につかぬようにひっそりと、剣は一月ぶりの可南に帰還した。そしてまずまっすぐ頂を訪れた。羅猛と黒葉には、洗いざらい打ち明けようという気持ちがあった。隠しておくには重大なことが多すぎたし、自分がこれからどうするにせよ、まず頂の判断を仰がねばならないとも思っていた。城壁に興味を持って平原へ出たこと。春水との出合い、闘争、敗北、そして人間との出合い----。夜を徹して、次の月の出を見るまで続いたその話は、全て三人の胸の内に秘められることとなった。

 疲れた体に鞭打って語り続けた剣は、やっと頂から解放され、我が家へと飛んで帰ったのだった。夢にまで見た我が家、妻と、我が子の元へ。本当は頂になど行かず真っすぐ焔の元へ帰りたかった。簓をその手に抱き締めたかった。その思いがやっとかなう。
 剣の口笛の合図に飛び出さんばかりの勢いで扉を開き、胸にすがって泣き崩れる焔を、抱え上げるようにして懐かしい小屋へ入り、まずは一杯の酒をと手を伸ばし、暖炉の側で剣が見たものは----前、いや、現春草の当主に生き写しの、我が子の微笑みだった。


 剣は、生まれて初めての、嫉妬に苦しんでいた。
 早くに両親を亡くしたものの、兄や姉、また巫子族に仕える女たちの溢れんばかりの愛情に恵まれて育った彼は、そんな暗い情のあることさえ今まで知らずにいたのかもしれない。
 かつて、兄が上の姉に余計に愛されていると、ささやかな妬みに似た気持ちを抱いた事はあった。だがそれはまた自分が兄を愛するが故に、半面喜びともなり得るほどの淡いものであった。今、初めて知る負の感情の強さが、剣をさいなんで止まなかった。だが焔には勿論のこと、何も知らぬ友人達にもそれを打ち明けて相談することも出来ず、剣は自分で自分の心を持て余していた。雪に埋もれるあの家に日がな一日留まっていたなら、自分が何をしでかしてしまうか、溢れる激情を抑えることにもう自信が持てなかった。だから今は出来るだけその危険な場所から自分を引き離しておくしかなかったのだ。

 人は----猫は、死者には、何と寛大になれることか。
 春水の死を信じていた頃、剣は妻の過去の幸福を祝福することさえ出来たのだ。簓の黄金の髪ですら、彼を苦しめはしなかった。あの、哀れにも死んでしまった男。もういない男。お前の代わりに、お前以上に自分が焔を幸福にしてやろうと、冥福を祈るに似た気持ちでいることさえ出来たのだ。だが、今は。

 息子を抱くと、剣はその金髪に被せて、春水の顔を見た。それは過去の優しい亡霊ではなく、彼を殺し、そして今度会ったら必ず殺してやろうと、彼が心に決めている男の顔だった。自分の妻を愛し、その腕に抱き、今も何処かで生きてその温もりを知っている男の顔。幸福だと----かつて自分の妻に言わせた男の顔。簓の紫の目も、もう何の救いにもならなかった。かえってその赤子に兄の名を付けたことを悔やみさえした。自分と兄との懐かしい思い出までが汚されてしまったようで。

 簓の、赤子ながらに細い顎の線、絹糸のような薄い黄金の髪、彼は育つほどに実の父親に、春水に似てくることだろう。剣は自分の顔を手で被った。彼は焔を愛していたのだ。愛する者を失って来た彼の今のありったけの愛で、妻を想っていた。彼女の笑顔を壊すまいと決意した日のことを、彼はまるで前世の記憶であるかのように思い出していた。あの時は----よもや自分がその元凶になる時が来ようとは考えても見なかった。この新たな幸福を奪おうと、いつか焔に襲いかかる物があるのなら、自分が盾ともなり、どんなことをしてでも守ってやろうと思っていたのだ。優しい過去だなんて----。自分の愚かさを、彼は呪った。あれはまだ子猫のままごとじみた感情だったとでもいうのだろうか。

 今では、兄の名を、その呪われた言葉となってしまった名前を呼んで、思い出にすがることさえ出来なかった。呆然と、剣は低い木の枝に腰をかけ、日が陰り、体の節々が寒さに耐えかねて痛み出すまで動かずにいた。秋と冬の短い日の入りまでを、剣はずっとそうして過ごして来たのだった。いっそこのまま凍り付いてしまおうかと思う事さえあった。家に帰れば、幼い息子の顔を見ぬ為に、酒を必要以上に煽り、前後不覚になって眠ってしまうしかなかった。たとえ眠りの中で度々の悪夢に襲われるにしても----剣を心配して何かと構う焔に、思ってもいない言葉を投げ、彼女の傷つく顔を見るよりは----そしてまたそんな自分を耐え難く思い悩むよりは、幾分かましだった。

 だが、そんなささやかな逃避行ももう長く続けることは出来ない。本格的な吹雪の季節はすぐそこだ。一旦可南が吹雪けば、いかな剣でも、もう外に出かけて行くことは出来なくなる。一日中あの家で過ごさなければならないのだ。どうやってその時を耐え忍べば良いものか。


「剣!」
 名前を、何度呼ばれたのだろう。剣はやっと振り向いた。
「剣! 聞こえてンのかよ、おい……」
「真白……」
「よ。久しぶりだナァ」

 真白と言葉をかわすのは本当に久しぶりだった。彼は狩りの儀にも姿をみせなかったし、秋祭には剣がいなかった。ただでさえ成人を迎え正式な薬師となった彼は忙しく、秋は猫の出産の季節ということもあり、剣の帰還祝いにも一時顔を出しただけだったのだ。

「毎日狩りに出てるんだって? 頑張るなあ、新婚の夫は。こんな雪を押して外出てンの、俺とお前位だぜ」
「ああ……」
 放心した剣の表情を、真白は心配そうに眺めていた。本当は偶然の出合いなどではなく、悩んだ末の焔に泣き付かれ、忙しいのを押して可南をさまよい、剣を探しに来たのであった。
「あのさ、剣」
 まだぼんやりと真白を見つめる剣に、彼は顔を近づけた。声が届くのかと心配するかのように。
「え……」
「ちょっと雪も落ちてきたしさ、獲物もいないだろ? 一休みなら、俺の家来ない? この近くだぜ。来るの初めてだろ」
「ああ……」
 それではここは既に白山だったのか。気付かぬうちにそんな所まで歩いて来たのだ。
 剣のはっきりしない返事を肯定と受け取って、真白は彼の腕を取って立たせ、歩き出した。黙って、剣はその後に付いて行った。確かにどうせ雪の中にいても狩りをする気にもなれなかったのだ。


 やがて見えて来た薬師の家は頑丈な木の造りで、黒葉の家よりもなお広い程だった。尤もその大半は薬草を蓄えるための倉庫であり、この身分の高い客にうろたえ気味の遣い女に迎え入れられた真白の部屋は小さく、だが絵画や細工物が控えめに飾られた、居心地の良い空間だった。緑の品らしい、華奢だが美しい石で作られた火鉢を挟んで、彼等は座り込んだ。
 真白の家に入るのは初めてだったと今更のように気付きながら、剣は辺りを見回した。兄の簓はあれほどまでに真白や父親の楠木の世話になったものだが、薬師が巫子村を訪れることはあれ、剣が直接ここに来たことはなかった。必要な時は巫子村の女を使者に立てれば済むことだった。

「キレイな、絵だな」
 壁を飾る数点の小さな絵画に目を留めながら、剣は呟いた。
「だろ。俺が描いたんだ」
「えー?」
 剣は驚いて真白の顔を見た。彼が絵画や彫刻を好きなのは知っていたが、まさか自分でそれをたしなんでいるとは全く知らずにいた。剣は思わず笑った。
「ウソだろ、お前、絵なんて描くワケ?」
 緑の男みたいに、という言葉を飲み込む。
 剣の笑みに嬉しそうに、だが若干恥ずかしそうに、真白は頷いた。
「日刺や黒矢達にはゼッタイ秘密だからな。何言われるか解ったモンじゃない」
「ああ、まったくさんざん言われるだろうな。軟弱だとかナンとかさ。……しかしお前も馬鹿みたいに忙しいクセに、良くやるよ」
「好きなコトだもん。寝ないでもやるさ」
 真白は胸を張った。

 ふと、剣は兄の言葉を思い出していた。あの前成人の祝いの日、彼は真白に言っていた。好きなことを愛し、それだけで君は幸せになれる。それは、あまりにも美しい予兆で----当時はただ自分に与えられた波乱の宿命が楽しみでもあり不安でもあり、他人のそれにまで気を払う余裕もなかったが、今はその言葉が妙に羨ましかった。
 考えるのをやめようと、剣は頭を振った。今は不吉なものになってしまった兄の名を、思い出したくはなかった。

「でもさ、良く出来てンな……」
 自分の気をひきたてるようにそう言うと、絵を間近で見ようと、剣は立ち上がった。
「だろ? 自分でもそう思うね。もー困っちゃうぜ。色んな才能ありすぎて」
「バカ言ってるぜ」
 それも真白が自ら彫ったものなのだろうか、小さな木の枠に収まった絵画は何れも小さく、だが暖かく、幸せな色彩で描かれており、それがまたいかにも真白の手によるものらしく、剣は思わず微笑んだ。

 ふと、一枚の絵の前で足が止まる。
 それは、猫の母子像。ふくよかな裸の胸に赤子を抱き上げた母親が、幸福と慈愛に満ちた表情で我が子を見下ろしている。細めた瞳のその優しさ。子供は信頼と安心に腕の中でねむりこけている。その安らかさ。薄い色彩の小さな絵画には、ただ、愛、としか呼べぬものがひらすらに描かれていた。真白もまた早く母親を亡くしていた。今は亡き母、自分が知らぬ母への思いが、そこに篭められていたものであったのか。だが、今の剣にはそんな真白の心を思いやる余地などなかった。

 立ち止まり、動かなくなった剣に、真白が心配して声をかけた。
「おい、やらしーとか卑猥とか言うなよ。それはおかーさんの胸なんだからな……」
 言葉が途中で止まる。
 剣は、その場に座り込み、声もなく泣き出していた。
「……剣……」
 真白の声も今の剣には届かない。彼は打ちひしがれ、ただその母子像の前にひれ伏して、いつまでも泣き続けていた。真白は殆ど恐怖に引きつった顔で、友の後ろ姿を見つめていた。何かが、おかしい。このままにはしておけない。これはもしかしたら、大変なことになってしまうのかもしれない。----でも、どうしたらいいと言うのだろう?
 真白の胸は、不吉な予感で今や張り裂けんばかりになっていた。
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