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III.  母子
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 雪祭は、幸いなことに快晴であった。
 巫子がいない為に祭りの日程を決めかねていた猫達は、特に祭りを取り仕切る黒の女房達は、ほっと安堵の息を洩らしていた。巫子のいない祭りも、もう四度目になる。その不自由さに、猫達もやっと慣れて来た頃ではあったのだが、神卸の無い祭りが、どうしても精彩を欠いたもとなるのは否めなかった。その実質的な意味以上に、技比べと祭りの馬鹿騒ぎとの間にある精霊との対話、それを見守る厳粛な一瞬が、猫達はことのほか好きだったのかもしれない。その一時の静寂があるが故に、後に来る祭りの無礼講もひときわ華やかに思われるのであったろう。

 だから、簓の成長は祭りの大きな話題の一つであった。
 例え今巫子がいなくとも、次の巫子が産まれているのといないのでは猫の心持ちにも天地ほどの差があるというものだ。春や夏ならまだしも、雪の中の祭りにはまだ簓は連れて出ることはできなかったが、剣夫婦に寄って触ると誰もが簓の話題を持ち出し、その成長を楽しみに語るのであった。前の代の簓は八つの年で巫子に目覚めただの知ったように語る者がいるかと思えば、いやいや前々代の細螺は十四で遅かったが、私はその瞬間に立ち会ったのだと、自慢たらしく吹聴する老猫もいた。そして決まり文句のように、今の簓は一体いつ頃巫子に目覚めるだろうかと、剣に聞いてくるのだった。

 知ったことか、と言うように剣は雑踏から顔を背けた。秋祭にいなかった剣が、今回は成人して初めて正式に黒の衣装を身に着け、族長、黒と踊る狩りの舞いに加わった祭りでもあったのだが、巫子族の出だけあって普段から舞いには定評のあった剣が今回はさっぱりと生彩を欠き、猫の中には首をひねる者も出始めていた。

 踊りの誘いに聞こえない振りをきめこんだ剣を諦めて、焔は若い黒猫達と踊りに立って行った。まだ一つにしかならない簓を黒の女に任せては来たものの、心配でそう遅くまで遊んでいられるはずもなく、ただ今日ばかりは普段の心配も忘れて短い祭りを楽しみたく、あえて剣の側から離れたのであった。一人残された剣はこれ幸いとばかりに酒の壷を片手に広場の隅へ逃れ、美味いと感じる訳でもなくただ無性に飲み続けながら、ぐったりと木にもたれて座っていた。

 藍高が、いつからか彼の側に座り込んでいた。一人になりたかった剣は、さっきから脇で藍高が喋り続けているどうでもいいような可南のうわさ話を全く聞いてはいなかった。だが藍高は剣の沈黙を気にする様子もなく、喋り続けていた。その無関心な喋りっぷりが、今度は逆に剣の関心を引いた。剣は不思議な気持ちになって、藍高を振り向いた。今彼は、黒葉の持っている馬の名前を片端からあげている所だった。
「……藍高」
 彼は振り返った。
「……何だ。剣。聞いてたのか」
 剣はいささか赤くなった。
「ああ、いや、聞いてた……けど……」
 藍高は笑った。
「聞いてなくたっていいンだ。そんな気分なんだろ。てきとーに相槌うっとけ」
「……何だ? それ」
「だから、てきとーに頷いてりゃいいの。いーからアトは死んでな」
 剣は首を傾げ、この年上の少年を改めて見つめた。今度は藍高は、剣も知らないような星座の名前を一つずつ唱え始めた。変わった事を知っているなあ、と思いながらも、剣はいつの間にか再び自分の思いの中にのめり込んで行った。

 だが、目ざとい女猫達がこの二人をいつまでも放っておく筈もなかった。
 もともと長身ではあったがここ二年でぐんと背も伸び、スラリと細身の藍高は、常日頃から女猫達に殊の外人気があった。十八ながら既に藍の家を背負い、細剣の腕も立つ。また藍族というのは昔から男も女も美貌が多いという事になっており、藍高も、妹の藍華も、それに違わぬ切れ長の黒い瞳を持つ、いかにも藍族らしい風貌をした猫だった。おまけに長ながら、まだ正妻も側女の一人も正式には娶らずにいるとあっては、女達の標的となるのも無理はない。剣とて、今や黒の本家入りを果たした成人猫、妻もまだ焔ただ一人だ。側女の座はいくらでも空いている。そもそも春の婚期に向けての最終決戦でもある雪祭だ。踊りの輪が出来次第、いざ、と二人から目を離さずにいた女猫も多かったに違いない。

「ねえ、二人仲よくいつまでもお喋りしてないでさ」
 早速近づいてきた赤の女が腰に両手をあて、自慢らしく豊かな胸を揺すってみせる。
「踊ろォよ。ね?」
「深刻そうなお話は祭りが終わってからにしなさいよね」
 負けじと、月の三女や雑種の猫が数人近づいて来た。さきほどから機会を伺っていたものらしい。
「そォだなあ……」
 藍高は立ち上がって赤の女の腰に手を回した。この藍高、妻を娶らないとは言え決して女に奥手な性格ではなく----そこがまた女猫に人気のある所以でもあったのだが----剣や若猫達の知らないところで女共に贈り物や、猫にしては珍しい「文」など欠かすことが無く、意外とマメな、早い話が陰で浮き名を流しっぱなしにしている、猫であった。羅猛や黒の次男、黒里のように男は黙して語らず、という猫が好みな女達は別として、たまに藍高の馬に乗って早駆けに出かけたり、「文」を貰ったり----尤もその「文」に何が書いてあるか読める女は殆どなく、実は藍高はいい加減な文字を並べているだけではないかという笑い噺もあるにはあったが----そんな風に藍高と遊ぶのを嫌う女はほとんどいなかった。

「行こうぜ剣、せっかくの祭りだ。も、いいだろ」
 剣は黙って藍高を見上げた。雑種女も藍高の肩に手をかけたが、未だに焔一筋、真面目な若猫だと評判をとっている剣にはさすがに馴れ馴れしくし辛いものらしく、黙ってこちらを伺っている。
「藍高、俺は……」
 ぐっと剣に顔を寄せ、ニヤリと笑って藍高は言った。
「あのな、お前は黒の長女の婿で、もう本家の猫なの。黒が祭りで一人シケてんのはご法度なの。解った?」
 そして顔を上げ、藍高に腰を撫でられた女がわざとらしく嬌声を挙げる間に、剣の腕を引いて立たせた。
「だからヒネてないでコッチ来な。……ほら月路、剣タイクツだってさ……踊ってやれよ」
 御指名を受けた月の三女はご満悦だ。目を輝かせて剣の手を取った。
「ああ……そうか、そうだな」
 見送る剣を後目に、藍高は何か軽口を叩いて赤の女を笑わせながら去って行った。剣もやっと気を取り直し、月路に微笑んで踊りの輪に加わった。遠くから、焔が自分を見ているのが解った。焔は焔で、剣を置いて踊りに出はしたものの、やはり心配で、踊りを楽しむどころではなく彼の方ばかり伺っていたものに違いない。

 踊りの輪は、開いては閉じ、閉じては開き、次々と女を変え、男を変え、猫達は篝火の周りをぐるぐると巡る。輪に逆らっていつまでも相手を変えようとせず踊り続ける者あり、闇の中に消える二つの影もあり、とは言っても今は冬なだけに、「季節外れ」な者達の他は、せいぜい春の約束を熱く交わすこと位しかしないのだろうが。

 ふと見ると珍しく羅猛が踊りの輪に加わり、焔を誘い出し、周りの歓声を浴びていた。黒葉は黒葉で今執心との噂の雑種女と派手な踊りを繰り広げている。来春には彼の四番目の妻となるのかもしれない。黒矢と日刺は、やはりそこは春の婚儀を控えた身、藍華と赤音と、たまに相手を交換する位で、踊り続けていた。まだ祭りは始まったばかりだ。夜も更ければ恋のさや当てもささやかな駆け引きも、ますます楽しく激しさを増して行くことだろう。

 いつしか、女猫にまぎれて藍高が剣の手を取った。女猫を模して踊り始めると、周りの猫達が笑い転げる。
「あのな、剣」
 小器用に女の足取りを踏みながら、右手の肘で剣の腹を軽く小突く。
「黙りこくってんのもなァ、お前らしくてカッコイイっちゃイイけどさ。女にゃー罪だぜ」
 曲が変わる。藍高は男の列にさっさと戻り、剣から遠ざかって行った。
 いつの間にか、こうこうと照っていた月はうすぼんやりと傘を被っている。明日はまた雪になるのだろうか。


 剣が家に戻ったのはもう明け方だった。焔はまだ起きていた。剣が楽しんでいるのならそれでいいという安堵の気持ちと、だが浴びる程酒を飲んでいた姿を心配する気持ちとないまぜで、眠らずに待っていたものらしい。ああ、と帰宅の挨拶とも唸り声ともつかぬ声をあげると、彼は再び暖炉の横の壷を取り、酒をあおり始めた。
「剣っ!」
 珍しく、焔はきつい声をあげた。
「いくら祭りの夜だからって……もうだめ。いくらなんでも、体に悪いよ。あれだけ飲んだ後じゃない」
 そのまま剣の手から酒の壷を取り上げる。
「…………」
 剣は何も言わず、されるがままになっていた。それが逆に焔の不安をあおった。
「ねえ、剣」
 彼の前に座り込んで、焔は言葉を探した。
「あのね、剣……あなた、何か考えてるコトがあるんでしょう? お願い、一人で悩んでないで、あたしに話してみてよ」
 剣の瞳をじっと見つめる。この秋から冬にかけて、何度同じ会話が繰り返されて来たことか。黙り込む剣の心を知ろうとして、焔が何度無駄な努力を繰り返して来たことか。剣の好きな食物を巫子村から取り寄せてみたり、あまり好きではないはずの酒を共に口にしてみせたり、剣とてそれに心を動かされない筈もなかったのだが。

 剣は顔を背けた。
「……別にないって」
 それは、誰よりもまず、焔には言えないことだった。少なくとも彼女にだけは、隠し通さねばならない事だった。女に黙り込むのは、罪だ----藍高に言われるまでもなく、そんな事は解っていた。だが、どうして言える? あの母子像の本当の父親は、彼ではないのだ。そして本当の父親は、彼の敵として----まだ、生きているのだと、焔に言えるか? その、救いようのない事実。

 だが今日の焔は諦めなかった。改めて剣の側に座り直し、そっと手を取る。
「……たとえあたしに辛いことだっていいんだ。だってさ、あたしが初めて剣の家に行った時、あんな無茶苦茶な頼みを、剣は黙って聞いてくれたじゃない。あたしがどんなに剣に申し訳なくて……でもどんなに嬉しかったか、一生忘れないよ。アレに比べたらさあ、どんなことだって、ひどすぎる、ってコトはないと思うよ。剣があたしに何言ったって……驚かないよ」
 焔はニコリと笑う。それでは彼女は、剣に別に女が出来たとでも思っているのだ。他に子供を作ったとでも? 側女を迎えたいとでも? そんな事だったら、どんなにいいか。それなら、とっくに焔の足元に伏して許しを乞う事が出来ただろうに。

 剣は彼女を押しのけるようにして立ち上がった。そして少しよろめいた。
「……剣、大丈夫?」
「大丈夫」
 剣は笑って見せた。かろうじて、焔に笑いかけることは出来た。大丈夫、大丈夫----何度も何度も、誰かに繰り返しそう言った事があったっけ。でも本当はぜんぜん大丈夫じゃなかった。それはその時も、そして今も同じだった。

 台所で染め物の鍋が噴いた。焔は振り返った。そして時を測ったかのように、同時に簓が泣き出した。
 妻は、母親は、躊躇したが、やがて威勢良く立ち上がった。
「剣、簓あやしてあげてね。あたし台所があるから」
「………」
 焔は振り向きもせず、そのまま台所へ飛んで行った。
 剣はしばらくそのまま立ち竦んでいた。
 簓は泣き止む様子もない。
 ゆっくりと、彼は息子の側へ歩いていった。酔いのせいで、身体がふらふらする。
 見下ろした簓は、美しい紫の目で彼を見つめていた。そして泣きながら、両手をさしのべた。まるで助けを求めるように。剣は我知らず手を伸ばし、彼を抱き上げていた。泣き声が次第に静かになる。剣がほっとしたのと、台所で耳をそばだてていた焔が胸をなでおろしたのと、どちらが先だったのだろうか。

 だが安堵した剣がふと見下ろした赤子の顔は。
 息子の顔をこんなに近くで見たのは久しぶりだった。もう長く、彼をその手に抱くのを避け続けていたのだった。そのあまりにも眩しい黄金の髪。細い顎。
 形の良い唇が、彼をねめつけて微笑んでいた。それは忘れられない死の間際、最後の細剣が胸に突き刺さったその瞬間、彼を見下ろした不思議な微笑みだった。剣の血が逆流した。
 火のついたように簓が再び泣き出した。

 止めなければ。これを止めなければいけない。と、酔った頭で剣は必死に考えていた。
 止めなければ。殺されてしまう。まだ死ねない。何故かは解らない。でもまだ自分は死ねない。死ぬわけにはいかなかった。止めなければ。この細剣の切っ先を。泣き声を。殺される前に、コロセ。死んでしまえ。
 剣は簓の体を、頭上高く差し上げた。目の前の煉瓦作りの暖炉が、血のように赤く彼を呼んだ。その冷たく堅い石の上へ、彼は簓を思いきり叩き付けた。
 と、思った刹那。

 剣の瞳を一瞬よぎった光があった。それは簓の髪の黄金だったのかもしれないが、彼の目を真実に焼いた光は----後光、であった。一枚の絵画から照り映える後光。あの小さくも明るい部屋を飾っていた母子像。安らかな眠りを見守る、母の慈愛。その清らかな、安らかな、笑顔。愛を----真白は描こうとしたのだろう。無償に捧げる愛。見守る愛。あの絵から刺す光は、愛を描きたいと願った真白の心そのものであったのだろうか。

 無償の愛を、恵のように、捧げたいと、自分は思ったはずだった。だが、無理なのだろうか? 彼が捧げたいと思い続けた愛は、この自分の負の感情の前に今亡び去ろうとしているのか。だが、彼はまだ負けた訳ではなかった。
 戦わなければいけないのだった。細剣の切っ先で胸を裂かれても。最後の一瞬まで戦い続けなければ、何も得ることも、与えることも出来ないのだった。愛も、戦いも、それは同じだった。彼の回りに今まで燦燦と満ちていた愛情も、兄のそれも、姉のそれも、皆がそれぞれの戦いを経て、やっとの思いで彼を温めてくれたものではなかったか。自分自身との戦闘に勝ち残った者だけが、例え勝てなくとも勝ち残ろうとあえぐ者だけが、初めて温もりを得、そして与える資格を手に入れることができるのだった。
 焔の笑みを壊してはいけない、と決意したのは、前世の記憶などではない。彼自身ではなかったか。彼自身が、自らの意志で、誓ったのではなかったか。それならば。

 剣は、凍り付いた自分の手を見た。そこで泣いている簓の姿を見た。
 そして凍った枝のようになっている自分の腕を、そっと目の前まで下ろした。
 自由にならない彼の手は、そこで簓を取り落とした。だがその下には、柔らかな揺り篭の敷布があった。簓はふんわりとその中に落ち、だがその僅かな衝撃で、なおいっそう激しく泣き出した。

 焔が台所から飛んできた。
「やだーあ……。どうしたの」
 何も知らない彼女は、簓を腕に抱き上げ、優しい言葉を呟きながら、あやし始めた。
 剣は、よろめいて後ろの壁にもたれ、床に座り込んだ。やがて彼は、簓を見、焔を見、そして最後に自分の手をじっと見つめた。
 そして床から立ち上がった。
「……決心した」
 剣の低い、だが強い呟きに、焔は不審そうに彼の方を振り返った。
 彼の顔は決して幸福そうではなかったが、その顔にもう迷いの影は無かった。
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