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IV.  別離
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 入家の儀は、剣の家の前で行われた。
 羅猛と黒の三兄弟もそれに立ち会った。小規模ではあっても、黒の分家巫子家の、それも巫子の入家という大事だ。巫子村からは、剣の乳母を先頭に、十人の女達がものものしく列を組んで迎えに来た。そして焔の手から簓を受け取り、銀の篭に納めると、大事な赤子を寒さの中に置いてはおけないと、すぐに立ち去った。入家の儀は、あっさりとそれで終わった。焔は、遂に涙をこらえきれず、息子の姿が見えなくなる前に小屋へ駆け込んでしまった。


 思えば、随分と急な入家だった。元から簓はいずれ巫子家に入る予定ではあったが、それは簓が巫子として目覚めてからになるのでは、それならば早くとも十歳になる頃か、というのが大方の予想だった。尤も巫子が村の外で産まれたということ自体久しく無かった事で、入家の儀というものが執り行なわれたのも同じようにかなり久しぶりの事であったので、前の儀を記憶している者も一人とてなく、一体いつが適切な入家の時期なのか、また入家の儀そのものも正確にはどのように執り行うべきなのか、正確に知っているものもいなかったのである。巫子村の女達は、慌てて物知りな緑の長老を呼び、猫の書物を紐解いて、何とか大切な儀の日にこぎ着けたのであった。だが肝心な入家の時期についてはどこにも記述がなく、ともなるとそれは全て巫子家の現長でもあり、簓の父親でもある剣が決める事だった。

 剣が入家を宣言してから、それは僅か七日後に執り行われた。剣の兄である前巫子簓も、その父細螺も、あの村で生まれ育ち、それ故早くに力に「開眼」した。巫子としてより早く目覚めさせるためには、簓もあの精霊が集う庭で育てるのが一番だ、というのが剣の述べた理由だった。急な入家ではあったが、理屈自体は尤もであり、既に成人した黒家の主でもある父親剣に、誰も反対する理由も権利も持たなかった。ましてや主を失って意気消沈気味だった巫子村は大騒ぎで、育児にも巫子の教育にも経験を積んだ女達が再び若い女を掻き集め、手ぐすね引いて待ちかまえている有り様だった。
 それにしても、簓がまだ秋数えで二歳にもならず幼すぎること、そして剣の決定から入家までがあまりに早かったことに首を傾げる者もいたが、それはまあ、充分理屈にかなった入家ではあったのであえて異を唱えるほどの事でもなかった。

 ただ、焔は。
 剣と焔の間にどれほどの言葉のやりとりがあったのか知る者はなかったし、二人ともそれについては同じように口を閉ざしていた。だが今日、簓を腕から離せずに体を震わせていた彼女を見れば、それが母親の望んだ結果でない事だけは誰の目にも明らかだった。


 遠ざかって行く行列は、森や起伏の中を見え隠れし、なかなか視界から消えようとしなかった。羅猛も黒兄弟も挨拶を済ませて既にこの場を去り、ただ簓を取り上げた薬師として立ち会った真白だけが、そろそろ帰ろうかと辺りを見回し、だが行列を見送り続ける剣が気になり、泣きながら家に入ったきりの焔も気になり、立ち去り難く剣の背中を見守っていた。

「真白、俺……頼みがあるんだ。お前に」
 背を向けたままの剣の言葉に、真白は顔を上げた。
「何?」
 思えば剣に頼み事をされたことなどあったろうか。真白は薬師であり、その仕事は頼み事などされてすることでは無かったので、この友人の初めてに近い「頼み」という言葉に真白は興味を覚えた。
「この間……お前の家でさ、絵とか、見せて貰っただろ? あの時にさ、あの絵……綺麗だな」
「うん、どの絵? あの……お母さんの、絵?」
 真白の部屋で剣が涙を流した訳を未だに彼は計りかねていたが、ただあの絵に彼が涙したことが----剣にそうさせた何らかの感情が、今回の急な入家に関わりがあるのだろうとは思っていた。
「あの絵さ……くれないかな。俺に」
「俺の、絵? ……いいけど……」

 真白は首を傾げた。剣が自分の絵画を欲しがるというのは光栄でもあったし、巫子家に育った彼であるから、他の猫達よりは家に絵画を飾る、ということにも馴染みがあるはずでもあったので、彼としては異存はなかったのだが、ただ我が子を手放したばかりの焔が、あの母子像を家に飾ることを喜ぶとも思えなかった。
「うん……欲しいんだ。あのさ……」
 剣は、言葉に迷うように口ごもった。
「何か俺……あの絵、特別だっていうかさ、随分助かったんだぜ……俺さ……」
「………」
 真白は黙って剣の言葉を待った。カンのいい真白は、それがこの友人が心の内を明かそうとしている珍しい機会なのだと悟っていた。なるべくその邪魔はしたくなかった。

「俺……」
 やがて剣は再び話し始めた。
「俺、簓にさ……兄貴に、死ぬときに、君は強い、とか言われちゃってよ、それで、じゃあ強くなきゃいけないな、とか、思って。自分でも俺は強いってずっと思ってたし。細剣だって弓だって、他の猫には負けねえって。大人の猫にだって」
「うん……」
「でも、何か、あの絵みてさ、それでマア色々あって……解ったンだけど。俺、ホントは弱いんだ。すっげー弱虫。すぐ泣くしさ……」
 彼は照れくさそうに頭を掻いた。あの日真白の前で涙を流したことを恥じ入っていたのだろう。真白はただ少し微笑んだ。
「……でもって、俺もやっぱり可南の猫なんだなあって。気ィ短いし、血が荒くて。ホントは、わりと俺って冷静なんだと思ってたんだけどなァ。なんか、思ってたのとぜんぜん違ったんだ。俺」
「ふうん……」
 あーあ、と剣は声を出して伸びをした。
「なんかこう……俺、強い、とか思って我慢したりするだろ、みんなでシアワセになるために、とかさ。そうするとサァ。結局最後はブチ壊しちゃうんだよな。頑張ろうと思ってもだめでさ」
「うん……」
「……だから、弱いってコトをもう認めてやらなきゃいけないんだなあって。結局俺、自分の出来る範囲でしか、誰かをシアワセに出来ないんだ。自分の弱さが、許してくれる範囲でしかさ。それが、解ったんだ。あの絵の、おかげで」

 剣は、相変わらず淡々と喋りつづけていた。その抑揚の無さがかえって彼の思いの深さを告げているようでもあった。照れもあってだろう、後ろを向いたまま喋り続ける剣を、真白はただ黙って見つめていた。
「……だから俺、それならそれで仕方ないって、あきらめるコトにした。我慢できないコトはもうしない。俺にはここまでしか出来ないって。悪ィけど頑張ってもここまでだ。それでいいかなって。それでダメだったら、もうダメなんだなって。それしかさ、出来ネェみたい。俺って、ケッコー頑張れねェんだ……」
「……そう?」
「んー」

 剣は見えなくなった行列からやっと目を離し、空を見上げた。春にはまだ少しある可南の空は、相変わらずひんやりと寒く、薄い雲を纏ってもいたが、既に冬の峠は越した柔らかな色彩を見せていた。
「前はさ……好きな奴ゼッタイ泣かせねえぞ、なんて思ってたけどさ。今は泣かせても仕方無いって思ってる。それは俺が今弱いからだしさ……。まあ、これから頑張って強くなるしかないンだよなア。今後に期待、ってことかな。結局さ……自分で自分を何とかしないと。誰かをシアワセにしてやれるとかやれないとかなんて……自分で自分のオトシマエつけられるようになってから言え、ってことなんだろうな。誰かと幸せに……じゃなくて、自分で自分の面倒見て幸福になって、それ位出来ないでなんで人のことどうこう出来るかってさ」

 やっと真白の方を振り向いて、だが目は合わせずうつむき加減のまま、剣はゆっくりと言った。
「俺は幸福になりたい……それがどんなもんなのか、よくは解ってない。今だって決して不幸じゃないんだろうけど、何か違う。全然足りない。足りないものも、解決しなきゃいけないことも、まだ解らねえ。でもさ、それは解った。俺は幸せになりたいんだよ。頭くるほど単純だけど、そのためには俺も、焔も、俺が好きな奴も、みんな幸福になってくれなきゃだめなんだ。そうやって俺は幸せになりたいんだ。全部焔の為になんて……俺にはそんなご立派なことはできやしない。結局全部自分のためだったんだ。でも、そのためにはまだ俺は……ダメだ。自分がツラいから、母親と子供を引き離すなんてことをやっちまう。だけど、そうなりたい。諦めないでさ……今まで俺、自分が幸福になりたがってるなんて事さえ解ってなかった。やっとそれが解っただけで、今はさ……」
「………」
 足下の地面を、剣はつま先で小突いた。
「……真白、お前にはさ、なんかそういった事が、きっと解ってたんだよなあ。簓が言ってたっけ。お前には好きなことがちゃんと解ってて、大人なんだって。うらやましいなんて思った事もあったけど、でもお前にだってきっと色々大変なことがあってさ……俺、なんか、こういうこと考えたこと、忘れたくないんだよ。だからさ、あの絵……」
 ちら、と真白の顔を見て、剣は照れくさそうに、だが明るく、笑った。
「だからさ、あの絵……くれないか? 俺に。……だからって、何の説明にもなってネェけどよ」
 真白も笑った。自分には結局何の手助けも出来なかったとしても----自分のあの絵が、友の心の中で別の絵を描いた、あるいは少なくとも彼がその絵を心の中に描くのを手助けしたのであろうことが嬉しく、また友がその胸の絵を自分に垣間見せてくれたことが誇らしくもあった。
「いいよ。明日にでも届けるよ。今後に期待ってコトで、ね。剣が一蓮托生で、周りをひっくるめて、怒涛のようにシアワセになる日を楽しみにしてるよ……」


 薄曇りの空は、まだ冬でもあり夕刻にもならぬのに暮れ始めていた。剣は我が家の前に一人立ちつくしていた。新たに、雪を呼びそうな風が可南を舞い始めていた。
 剣は簓に、詫びなかった。心の中でさえ。そして今、薄暗い部屋の中で泣き崩れているだろう焔にも。詫びるくらいなら初めからそうしなければいい。ただ自分が招いたこの別離を、決して忘れまい、そして後悔だけはしまいと思っていた。たとえこの先、何があっても。今の自分の精一杯で決めた事なのだから。

 それでも彼はもう見えなくなった息子が巫子の家に入って行く頃までは、ここに立って見送っているつもりだった。十五で授かり、十六でその手を離した自分の息子のことを。
 そしてその日が落ちたら----彼は再び歩き始めるつもりだった。
 まっすぐに自分の幸福に向かって。
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