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IX.  逃走
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 浅い春を迎え、頂は華やいでいた。
 黒葉は張り切った。羅猛の小屋に隣接して建てられた新居は、綺麗に磨かれた白木の壁に美しい塗料を塗った、広く、豪華なものであった。
 彼はついでに羅猛をその質素な小屋から追い出し、そこにも----その主がいやいやながらも許した限り----華麗な住居を建てた。櫃度品も緑の仕事師を一月かかりきりにさせてしつらえた豪華な物に替えた。それはもはや小屋とは呼べなかった。お陰で二つの新居の主はしばらくの間慣れない広さと豪奢さに居心地の悪さを覚えるはめになったのではあるが、ともかく可南は、やっとその頂に長の趣を備えることが出来たのだった。

 剣の生活にそう変化はなかった。相変わらず、狩りをし、武芸の稽古をし、焔と語らい、子供と遊び----。だがその舞台は大きく変化した。族長直轄領の狩場は恐ろしく広く、可南の山の裏側ほぼ全域に亘っていた。獲物の種類も数も豊富なそこは剣を大いに楽しませ、そして羅猛と二人で行く狩りはなおのこと楽しかった。頂に占有された豪華な狩り場で、剣は羅猛に狩りを学び、弓や細剣を学んだ。

 羅猛の言ったことは半分は本当で、半分は当たらなかった。本格的な細剣の手ほどきを初めて受けた剣はすぐにその腕を磨き----何と言っても自分より強い相手と日々鍔ぜりあうほどの効果的な訓練はなかったので----自分でもその効果の程が目に見えるようだったが、また自分が羅猛に勝つことは決して無いと言うこともすぐに理解した。

 黒葉がよく言うように、羅猛の細剣には「何か憑いて」いるようだった。おそらくそれは訓練や経験では得られない、天性のカンに近いものであったろう。相手の僅かな呼吸や仕草から、羅猛はその次の動きを全て見抜いてしまうようだった。体力的にも、若さの盛りの剣はもう彼に劣ってはいまいと思うのに、剣が万全を期して放つ渾身の突きでさえ、族長は軽々と受けとめてしまうのだった。黒葉がなぜ細剣で羅猛に勝てないのか、可南の猫は未だに今一つ理解し切れずにいた。羅猛の戦いぶりは見た目にはそれほど激しくもなく、また派手でもなかった。それ故に可南には、黒葉はわざと技比べの勝ちを族長に譲っているのだ、など陰で言う者もいたのだが、こうして初めて族長と手合わせをしてみて、ようやっと剣にも黒葉の言葉が理解出来た気がしたのだった。

 剣の頂での生活は、前よりもなお、楽しかった。黒葉や黒里と狩りに出ることもあった。余暇には、彼は最近閉じたままだった「本」を再び紐解くようにもなっていた。人間社会での生活と、そしてリーガに貰った「辞書」が、大いにその助けとなった。剣が本を読むという事を聞いた緑族が入頂の祝として何冊かの本を贈ってくれたので、焔に人間の本を見咎められることもなく済んだ。頂に入って、剣の家には二人の遣い女が新たに家族として増えたのだが、二人の幼い息子もまだ手間がかかり、黒の女房達との付き合いや祭り支度などにも関わるようになり、何かと忙しくなった焔に、もう剣の読書につきあう暇はなかった。
 昔からの友人達、若猫達との狩りも楽しかった。成人して忙しくなった彼らではあったが、暇を見て集い、狩りに出ることもままあった。彼等の態度には、その言葉も含め、剣が頂に入ってからも、少なくとも表向きの変化はなかった。充実した日々を剣は送っていた。


 赤の若者が朝早くから羅猛を尋ねて来ていた。剣もそこに同席して、密かに欠伸をかみ殺していた。春の朝は眠い。まだ寝台の中にいたい夜明けに、赤の口笛で叩き起こされたのだ。そんな無茶な起こされ方も、ここ頂ではそう珍しくないことを、最近剣は理解し始めていた。

 羅猛の「統治」の全てに剣は付き合わされていた。そこで剣は「面倒くさい」の意味を改めて理解することとなった。あらゆる苦情、裁きの依頼を猫達は頂に持ち込んだ。相手が族長とは言え、そこは我侭な猫達のこと、朝早くから夜更けまで、彼らには思い立ったら遠慮がなかった。他愛のないケンカから、狩場争い、貢ぎ物の奪い合い、そして女----。今朝の猫も女に逃げられたことをとうとうと申し述べていた。恐らく雑種に奪われたのだろうとか何とか。それをいささかうんざりして二人は聞いていたのだが----やがて黒葉が只ならぬ表情で頂にやって来たのは、若猫の口上がやっと終わろうとしている頃だった。

「どうした、黒葉」
「月ン所の春草の女が逃げた。二人とも」
「逃げた?」
 羅猛は赤猫を振り返った。
「お前の女は……緑だったな」
「ああ……」
 話を続ける前に、新しく口笛の合図が聞こえた。剣は窓際に寄った。遥か下方に、藍の老猫、弓師の長男、緑の長老----猫達が列を成して返事を待っているのが見えた。そしてその日の昼前に、可南の内外、猫の丘陵から、元春草を中心にほぼ全ての金髪女猫が夜の内に姿を消していたことが解ったのだった。その数、およそ三十。それだけではなく、残った光一族の男三十名程も揃って姿を消していた。そしてその四月前----剣は知らなかった。今となっては知る由もなかったのだが、はるか東、城壁の中、エドムからはほぼ全ての金種が同じように姿を消していた。


 黒葉は窓際に腰掛けて苛立たしげに足を揺すっていた。
 七日間にも及ぶ捜索は、全て無駄に終わった。剣が春水と出会ったあの丘にまで、捜索の足は伸ばされたのであったが。それは、春水の生存を知らない可南猫にとっては、随分と不思議な事件ではあった。
「光も消えたか」
 食卓に座っていた黒里がぼそりと呟いた。
「あれは、別にいい」
 住まいが豪華な新居に変わっても、羅猛は相変わらずの「定位置」、暖炉の前に座り、矢尻を研いでいる。
「どうせ殺すわけにもいかなかった。可南から間者猫がいなくなったというだけの話だ」
「どうやってこれだけ密に連絡を取ったンだか」
 低い声で黒里は続けた。
「見事なお手並みだよ」
「殺しとくべきだったぜ。女も、光も、全部」
 黒葉が勢いをつけて立ち上がる。黒里は顔を上げた。
「それは、無理だったさ兄貴。……あの時はあれがギリギリだ。可南の猫に、光は殺せなかったさ。あれは音の神の遣いだなんて言うアホな猫もいるからな。春草の女だって、色の違うのまで殺したら、モンク言うヤツが随分出ただろう。やっぱ、女子供まで殺るのはな……」
「春水だ」
 羅猛が呟いた。
「……春水だ。アレがいなかったら、今更どの女も可南出ようとしなかったさ。光は春草に付いたんじゃねェ、春水に付いたんだ。アレを殺し損なったのが、全ての原因だ」
 皆黙った。羅猛が立ち上がった。
「もう、いい。捜索は取り止めだ。平原全部探すわけにゃいかねェ。振り出しに戻っただけだ。別にこっちが被害を受けたわけじゃない……今の所はな。俺たちが浮き足立つ必要もない」
 彼は振り返った。
「この問題は、今はこれまでだ。手の打ちようがない。奴等は体勢を整えに入ったばかりだ。そう簡単には仕掛けてこねェだろう……何を狙ってるにしろな。麓の夜の警備だけ増やすように、月には言っておけ。理由は適当に考えるんだな」
「解った」
 黒葉は立ち上がり、黒里も後に続いた。


 羅猛は酒を手に、いつまでも考え込んでいる風だった。やがて自室に引き取ろうとした剣に、彼はやっと声をかけて来た。
「剣」
 剣は羅猛の正面に腰を下ろした。
「人間の所にいた金種と……話したって言ってたな」
「ああ」
「奴等は『自然種』の情報を求めていた、だな?」
「ああ……そうだ」
「お前が話したカンジで、春草とツルみそうな様子はあったか」
「……それは、解らない。ヤツはどう見ても自然種を忌み嫌ってた。でも、自然種に金種がいると知って、目の色を変えてた。どこにいるのかと、さかんに気にしていた」
「そうか……」
「…………」
「春水と、光と、逃げ出したオンナだけなら」
 羅猛は呟くように言った。
「当座のモンダイじゃねえ。数が少なすぎる。増やすには随分時間がかかる。ナンかちょっかい出してくるにしても、何十年か、百年か先だ。だが、それに今、『金種』の何十人かが加わったとしたら話は違ってくる。それも男ばかり」
「でも可能性としては」
 剣は言った。
「薄いと思う。奴は金種と色付きが混血してるってコトに嫌悪感を持ってるようだった。例え金種が光と会う機会があったとしても、純血じゃない彼等とツルむことがあり得るかどうか」
「そう思いたいがな」
 羅猛は低く言った。
「だが、春水がいる……お前が死んでる所をニンゲンが見付けたんなら、そこはニンゲンの縄張りでもあったってことだ。そこに春水がいたわけだ。春水は……純血の、そいつらが言う『金種』だ。もし春水がその後もしばらくそこにいたのなら、金種と出くわしたって事も考えられる。あるいはお前を助けたニンゲンが春水をみかけて、その情報を金種にもたらしたってことも有り得る」
 一瞬沈黙し、だが彼は再び話し始めた。
「まあ、城壁に守られてニンゲンと同化してた猫が、いきなり平原に飛び出して無事に済むとも思えんがな……それでもまだ数は少ネェしな……可南をどーのこーの出来るとは思えんが……あンまり嬉しい話じゃネェことも確かだな」
 羅猛はやっと薄く笑った。今日はあまり羅猛の笑顔を見ていなかった。
「まあ、あくまで、まさか、のハナシだ。お前の言う通り、可能性は薄いよ」

 剣は考え込んでいた。あの、タワーで見た猫の嫌悪の表情。彼が雑種猫と「ツルむ」ことが考えられるだろうか? だが、春水がいれば。明らかに自分たちと同じ色を持った彼がいれば。
 剣は溜息をついた。
 春水、春水、だ。
 春草の事を考えようとすると、結局それは春水個人のことを考える事になるのだ。それほどまでに彼は春草を体現していた、ということになるのだろうか。可南にそんな猫はいなかった。黒葉も、羅猛でさえ、可南そのもの、とは言いかねた。

「剣」
 羅猛は、今度はじっと剣の顔を見ていた。
「何」
 羅猛は立ち上がり、窓の外に目をやった。
「俺はな、ずっと春水は俺の仇敵だと思ってたぜ……。あれと決着を付けるのは、俺なんだってな。春草を潰すのは俺の役目だ。だからそれまではどうしても……」
 言葉が切れた。剣も黙ってその先を待った。
「だがな。それはどうやら違ったらしい。あれはお前のモンだ。どうもそういう風に決まってるみたいだな。アイツとお前は妙に縁があるからな」
「………」
 族長は振り返った。そして言った。
「あれは、お前を殺し、お前の妻を抱き、そして自分の子供をお前に押しつけやがった男だ」
 剣は息をのんで顔を上げた。反論しようとしたのだが----言葉が出なかった。
「なんだい、ズバリかい」
 羅猛は窓の外に目を戻し、声を出して笑った。
「アテずっぽだったのによ。お前もたいがい正直なヤツだな」
「………」
 トン、トン、と羅猛の指が窓を叩いている。もう一度反論を試みようとして、だが諦めて、剣は黙って彼の背中を見つめていた。やがて、暮れ始めた部屋の薄暗がりの中で、羅猛は低く呟いた。
「あれは……春水は、絶対またお前の前に現れる。あれを迎え討つのはお前だ。俺じゃネェ。そういう星回りだ。あれは、お前のモンだ。生かすなり殺すなり……煮るなり焼くなり、好きにしろ」
「……ああ、好きにする」
 剣は答えた。族長は笑って、彼に背を向けた。そして閉まりかけた扉の向こうから、羅猛の声だけが聞こえてきた。
「お前の即位は、来年だ。春祭までに準備すましとけ」
 扉が閉まった。
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