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X.  秋雨
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 しとしとと、秋の雨は長い。
 降っているのかいないのか解らないような雨が、可南をもう数日、柔らかな、だが冷たい倦怠で包んでいた。雨を押して狩りに行く者もなくはなかったが、もう冬も間近なこの時期、可南猫の殆どが冬支度を終えていた。だから暖炉の側で過ごしたいようなこんな日、わざわざ狩りに出ているのは、よほどの必要に迫られたか、あるいは根っから狩りが好きな猫に限られていただろう。

 剣は恨めしそうに窓の外を眺め、壁に掛けた弓を眺め、もう朝から何度目かの溜息をつき、再び窓の外へ目をやった。彼は根っから狩りが好きな猫であった。本当であったら今日も一日中、彼の新たな狩場を巡りたかったのである。新たなとは言っても、剣が頂に住まいを移してから既に一年が過ぎようとはしていたのだが、相変わらずその広大な狩場は彼にとって新鮮だった。


「……お前、聞いてる?」
 藍高と目が合った。
「聞いてる聞いてる」
 慌てて、剣は本に顔を戻した。 
 青い表紙の、人間の本。リーガから貰って来た本だ。剣はあれから暇を見ては一人で細々とこの本を読み進め、辞書はその大いなる助けとはなったのだが、それにしてもその作業は難航し、季節ごとに数頁、解らなくなってはまた前に戻りを繰り返し、いつになっても読み終える気配すら無かった。剣はそれでも良かったのである。あくまで本は、狩りに精を出す彼の余暇の娯楽であったのだから。だが、よりによって族長から、
「即位までにそれを全部読んでおけ」
という厳命が下ったのである。金種の問題もあり、次期族長としては人間の事をなるべく理解しておくべきだ、というのがその理由だった。

 剣は一応反論したのだ。
「……じゃあ、羅猛が読めばいいじゃないか」
「俺はもーすぐ族長じゃなくなるしなァ。だいたい字なんてモンは読めネェ。老猫にソンな無理させる気かテメエは」
 ----すげなく却下されたのだった。かと言って羅猛がその本に興味を持っていない訳ではなさそうだった。意外なことに、剣の思った以上に、羅猛は人間に興味を持っていたようだった。頂に来てからは特に、剣は羅猛にせがまれて人間の世界の事を語って聞かせることが多かった。ヴィレッジのこと、タワーの事、エドムの、金種の事。女がいない世界。凍った人間の卵で、作られる子供のこと。全てを理解した上ではなかったろうが、羅猛はいつも相変わらずの定位置で、矢尻を研ぎながら剣の話に耳を傾けるのだった。


 ようやっと本に目を戻した剣ではあったが、頭は相変わらず秋の狩りのことで一杯だった。実際問題、剣が読書を、文字を読むこと自体を好きなのかと問われれば、それは大いに疑問であった。彼は単に好奇心が旺盛で、人間についてより多くを知りたいと願っていたし、書物の内容にも興味はあったのだが、決してそれを「読みたい」とは思っていなかったのだ。その証拠に、かつて緑に貰った猫の本などはまだ一頁も繰られないままに置いてあった。おまけにその人間の本は、猫が書いた物であろう春水のそれよりますます難解で----悲鳴をあげた剣の元に、それならばと羅猛は藍高を呼び寄せたのだった。

 剣は驚いた。人間の場所へ、城壁の内部へ行ったことは他の猫には秘密にしておけ、と厳命した羅猛であったのに。本のことを打ち明けるには、それを一緒に読み進める為には、どうしても人間の場所のことを説明しないわけにはいかない。それでもいい、と羅猛は言った。


「……おにーさん」
 剣はがば、と顔を起こした。
「……おねむなのね」
「いや、起きてた起きてた!」
 再び頁を目で追う。が、もう一文字も頭に入ってこない。疲れていた。朝からずっと、今日はこの本と首っ引きだ。ついに剣は本の上に突っ伏した。
「もー俺、ダメだあ……死ぬ……」
 そのまま床に手足を投げ出す。
「ナンだよ、ダラシねえなあ」
 藍高はそう言いながらも、彼のために柿茶を入れてやった。
「……酒がいい……」
「それ以上アタマ馬鹿にする気か? 茶にしときな」
「………」

 猫の社会にも本はあった。数こそ少なかったが、薬師は書で医術を学んだし、緑には「物書き」の一族もいた。だが世襲制の物書きは一家族しかなかったし、猫の世界の記録を細々と書き連ねる彼らは、一生に数冊分の厚さの本を残せば良い方であった。何せ物を書いてもほとんど生きる助けにはならぬ社会である。他に細工物などで生活を立てながら、物書きの家に産まれた誇りだけを頼りに、自主的に続けられている作業なのであった。故に猫社会に現存する本のほとんどは古書であり、それも可北にあった。可南では文字を読める者すら希だった。

 その中で、藍高は珍しく読書家として有名だった。有名とは言っても、文字の読み書きはここ可南では特技として認められることもなく、ただ、彼は本を読む者、文字を書く者、それだけのことだった。女共に「文」をやって珍しがられるくらいの得にはなったろうが----。藍高も友人達の前で本や文字の話題に触れることは全くなかった。
 だから剣は藍高がこれほど文字に「たけている」のに密かに舌を巻いていた。
 無論藍高は人間社会については実際何も知らず、ただ文字を追うことしか出来なかったが、ただその発音を教えて貰えば剣の方に心当たりがあることもあり、そうやって二人はこの秋をずっと読書にいそしんで来たのである。

「あー、狩りに行きたい、狩りに行きたい。狩りに行きたい……」
 じたばたと、子猫のように、剣は足をばたつかせた。
「お前、この秋は免除してもらったんだろ。がんばってホン読みな」
 剣の狩りは、確かにこの秋免除されていた。いや、禁止されていた、と言うべきか。彼の家の冬の蓄えは全て羅猛が用意することになっていた。
「……あれは、策略だ。羅猛は楽しんでるンだぜえ。普段の二倍獲物が捕れるンだ」
 族長直轄領では獲物に困るということはなく、いつも剣と羅猛は必要な分だけに狩りを抑える「我慢」をしていたのだった。どうせ多く捕っても無駄に腐らせるだけであったので。

「なあ、藍高」
 寝そべった姿勢のまま、剣は口を開いた。隣で藍高はまだ本の頁をめくっている。
「んー?」
「お前、本たくさん読んでンだろ」
「そんなでもないぜ。手に入る分だけ」
「フーン……変わってンな」
「ナンで? 面白いぜ」
「どんなん読むの」
「だから、あるのはみんな。緑から借りて来るんだよ。猫の神話とかさ。ケッコーいける」
「猫の神話?」
「そ。創世神話とか。だからこのニンゲンの本もなかなか面白いね。ああ、そーゆーコトだったのか、とか思って」
 剣は床から頭を起こした。
「猫の創世神話って、どんなん?」
「マア本が古いから」
 藍高は言った。
「春草が主役なのが多いね。アッチは元は本好きだったみたいだし。きっと春草天下の頃に緑が書いたんだろーけどさ。『昔、闇と光が手に手をとって氷の宮殿を逃げ出した』みたいな」
「……それで」
 思い出そうとするように、藍高は眉をしかめた。
「『闇と光は北の山へ行き、そこに仲良く住み始めた。だが闇は光に懸想し、犯そうとしたため、光は闇を暗い山へと追い払った。そこで北の山は光に満たされ、花々の咲く美しい神の庭となった。一方暗い山には雪が舞い、争いが絶えなかった。やがて北の山の一番大きな、一番美しい白木蓮の花の中から、神の子が生まれた……』てな風に延々と続くわけ。ちょっとテキトーだけど、こんなだったと思うぜ」
「神の子……」
「多分さ、春草が可北に根を張り始めたコロにさ、当主神話を作ろうとして書かせたんだろうな。民草の心を掴むには、当主を神にしちゃうのがイチバンじゃん」
「なるほどネェ……」
「氷の宮殿、ってのは、きっとこっちの本にある『ドーム』ってヤツなんでネェの? 今の城壁か? ……でも面白ェよな。ニンゲンはさァ、猫がドーム逃げ出してよっぽど遠くに行ったと思ってたらしいけど……猫はずっとワリと近くに、可南と可北に住み着いてたンだ。それに気付かなかったってコトはさ。ホントに『ドーム』から出ねェ生活だったンだろうなァ……。今もニンゲンが城壁から出ないのはその名残かな」
「………」
「闇が光を犯そうとしたってのはさ、結局混血が出来て、春草の純血が危なくなったってコトなんだろうな。でもさ。当時は猫が『ドーム』から出てきたばっかりの頃だろ? この本で言う、猫の集団脱走のすぐ後だろ……その頃は猫だって、お前が言う、冷凍なんたらとかそういった『科学』とかの事もきっとまだ覚えてたんだろうに、それでもあんな古くさい神話書くんだよなァ。結局ソッチの方が説得力あったってコトなんだろ。生き物って不思議だよな。それともすぐ平原に同化しちゃって、科学とやらはもういらないって、あっと言う間に忘れちゃったのかな……」

 剣がじっと自分の事を見つめていたのに気が付いて、藍高は本から顔を上げた。
「……ナンだよ」
「……いや、ちょっとビックリして」
「何」
「ナンか、珍しく熱く語ってるから」
 これも珍しく、藍高が顔を赤らめたように見えた。彼は乱暴に本を閉じた。
「……お前が、聞きたがったんじゃねーかよ。ったく、ヒトが手伝ってやってンのにケチつけやがって……」
「ありがとう」
 剣は素直に礼を言った。
「その創世神話ってヤツ、今度見せてくれよ」
「オヤ」
 藍高はフン、と笑った。
「また読む本増やす気か? コッチ読み終わってから考えな」
「……読み終わってから!?」
 当面の問題を思い出して、剣はガバと床から起きあがった。
「この本、春までに読めって? そんなん無理に決まってんじゃねーかよ。俺、春まで狩り禁止か!? 何とかしてくれよーもォ……」
「まあ無理だろうな」
 藍高も認めた。
「羅猛にも言っとくよ。あのナマケモノに本読めなんてムリな注文すんなって」
「………」
 剣は再び、いやいやながらも本に顔を埋めた。好きで読んでいた筈の本も、外にも出れず、一日中それだけとなると----。再び恨めしそうに、彼は窓の外に目をやった。人間世界のそれとは違い気持ちよく歪んだ硝子窓は、可南の風景をいやに優しく映し出していた。
 雨は当分止みそうにない。


 ぱちり。
 火がはぜる。
 夜、暖炉の前で、その日読んだ「本」の内容を羅猛に説明するのが最近の剣の日課となっていた。だが今日は、剣は猫の創世神話を楽しそうに話して聞かせていた。羅猛はいつもの定位置で、いつものように矢尻を片手に、首を傾けて聞き入っている。冬支度に忙しい日々を送る焔は子供達と共に既に寝床に入っていた。

「その神の子ってのが、当主の事なんだぜ、きっと」
 器から酒がこぼれるのにも気付かず、剣は話に熱中していた。
「フーン……そりゃまた、かなり都合のいいハナシだな。闇ってのは、黒かよ。ズイブンだよなァ。黒葉がブッとぶぜ。光犯しました、なんて日にゃ」
 剣は笑った。
「黒葉は春香に手も出さなかったんだモンな」
「……そうだな」
 羅猛は矢尻を研ぐ手を休めて、じっと炎を見つめていた。秋祭も過ぎた最近では、朝晩には水桶に薄氷が浮かぶ。もう暖炉の温もりはかかせないものとなっていた。冷たい雨が朝からそぼ降るこんな日には尚更だ。
 黄金の瞳に炎の影がきらめくのを、剣は少し不思議な物を見るような気持ちで見つめていた。
「その後からさ、羅族の神話も聞いたンだぜ」
「ほう」
「ソッチは可南で書かれた本らしくて。藍族にある本らしいけどさ、スゲーかっこいいぜ。『ある日太陽から一人の戦士が落ちてきた』」
 羅猛は笑った。
「へーえ。太陽の戦士かよ、そりゃ確かにスゲーな」
「『彼は荒ぶる神の落とし子であった。その目の中に太陽を持っていた。彼は可南の山に一人の子をもうけ、そしてまた太陽へと帰って行った』その子供の子孫が、羅猛ってワケだ」
 暗記した一節を、剣は得意そうに語って聞かせた。
「……太陽へ帰る、ねェ……。カッコ良すぎるのは、春草の神話と似たり寄ったりだな」
「でもさ、カッコいいじゃんやっぱ。ワクワクするぜ」
 羅猛は剣と自分の器に濁酒を注いだ。
「そうだな。なんつーか、神話ってなア……、いいな。ワクワクするよ。確かに」
「………」
 剣は、待った。きっとその次に、羅猛らしい何か皮肉な言葉が続くと思ったのだ。
「……どうした?」
「いや……羅猛でも、ソンなこと思うのかって思って」
「バーカ」
 羅猛は笑った。
「いーもんはいーじゃねーか。なンかユメがあってよ」
 その横顔を、剣はじっと見つめた。炎に彩られた顔の輪郭は、随分と若く見えた。いや、考えてみれば彼は本当にまだ若いのだ。族長になって十年が経とうとしても----未だ二十五の若猫なのであった。

 やがて、羅猛が言った。
「神話なら、俺も一つ知ってるぜ」
「どんな?」
「神話っつーか、夢物語かな……。『そこには、庭があった』」
 剣は黙って聞いていた。光を灯した羅猛の瞳は、黄金の虹彩がますます細く、何処を見つめているのか剣にはその先が見えなかった。
「『庭の中央に、銀に輝く泉があった。その周りには、白い水鳥が戯れていた。泉を囲んで、色とりどりの陶器をはめ込んだ小道があった。そして、猫と人間が仲良く手を取り合って、そこをゆらゆらと歩き回っていた』」
「猫と……人間が?」
 驚いて、剣は羅猛の顔を見た。そして、続きを待った。
「終わり」
「……それだけェ? 話はないの?」
「……ここしか、覚えちゃネェんだよ」
 羅猛は笑った。
「何だか、でっかい国のハナシだったんだけどな……あとは忘れちまった」
「誰から聞いたの? 猫と人間仲良く、なんてさ。珍しいよな」
 酒の器を、羅猛は持ち上げ、それを目の前にかざした。可南では珍しく厚い硝子で出来たそれが暖炉の火をうけて、木の床に極光を描いた。
「……さァなあ……ガキの頃家にいた長老じゃネェかな……それも忘れたよ。古いハナシさ。これもまた、都合のいい神話の一つかな……」

 炎が、大きく揺らいだ。剣はあわてて薪をくべた。
「いい名前だな、焔ってのは」
 ふいに、羅猛が言う。
「お前、大事にしろよ……」
「ああ」
 黙り込んで、二人は炎の動きに見入る。眠たいくらい気持ちいい夜だな、と剣は考えていた。沈黙が、妙に心地よかった。
 だがやがてその沈黙を破り、剣が話しかけた。
「ねえ」
「何だ」
「羅猛さ……ここにいない間、どこにいたの」
「………」
「八歳からさ……十五で、帰って来るまで」
「………」
「ずっと雪山に、いたワケじゃないだろ」
「……ところがそーなんだよ」
「一人で?」
「ああ」
「八歳で? 嘘だろォ。普通死んじまうぜ」
「ところが死ななかったんだよ……うるせーヤツだな、お前は案外」
 羅猛は彼の方を振り向くと、笑って頭を小突いた。
「余計なことは言わねー聞かねーってのが、お前の美点じゃなかったのかよ」
「それは羅猛が勝手に決めた美点だ」
 頭を降って拳を避けながら、剣はニヤリと笑う。
「……俺は案外、好奇心旺盛なンだぜ」
「フーン」
 羅猛はふいに真面目な顔になった。酒をぐっと飲み干して、剣の頭にその顔を寄せて来た。
「……じゃあな、オイ。その好奇心に免じて、一つイイこと教えてやるぜ……今日しか出ねェ、とっておきだ。心して聞きな」
 剣も彼の方を振り向く。
「……何」
 羅猛の鋭い黄金の瞳と、剣の黒い瞳が、ひどく近い距離で、まっすぐに合った。
「今度ニンゲンと何かあってな」
 その声は低い。まるでささやくように。
「困るようなコトになったら……死の山の、中腹……かなり上の方にある、洞窟に行ってみろ、って言ってやれ」
「……死の山」
「そうだ。可南裏の雪山だ。洞窟はな……可南から獣道まっすぐに頂上目指して上って、三日もかからないか……あそこにゃ森もねェし、入り口ン所がでっかい岩になってるから、スグ解る。その中にな……」
 羅猛は剣の耳に口を寄せた。聞くにつれ、剣の顔色がさっと変わる。
「……羅猛! それは……」
「いいか」
 剣の顔に自分のそれを寄せ、その瞳を覗き込みながら、羅猛は低く、だが強く言った。
「これは、切り札だ。人間に対しての、最後の切り札だ。絶対に覚えておけ。そして、簡単には使うなよ……」
「解った」
 剣は、頷いた。
「……解った。覚えておく」
 その顔は痛いほどに真摯だった。寝床に入っても、剣はその晩遅くまで眠ることが出来なかった。
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