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XII.  約束
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「なーんか……ちーと疲れたなア」
 切り株の上で羅猛は伸びをした。
「何が疲れた、だよ。テメエ」
 黒葉は大げさに両手を広げてみせる。
「おめーはお部屋の中でオハナシしてただけじゃねーかよ。俺なんか大変だったんだぜ。剣を可南中ひっぱりまわすわ、祝宴の準備はあるわ……全くオメエは最後までオイシイとこさらいやがってよ」
「……まあな。最後の、族長の権限、てヤツだ」
 羅猛はニヤリと笑った。いつもの不遜な笑み。

 羅猛の「不遜」な態度は、若い頃から既に彼の身についていた。十五で黒葉と再開したその瞬間から、彼はふてぶてしく、実に可愛げのない猫だった。だがそのふてぶてしさそのものが羅族としての彼を印象付けることともなり、彼を「羅冠の息子」として可南に認めさせる役にも立った。
 それはおそらく幼い彼が、父羅冠を見真似て編み出した鎧でもあったのだろう。十五の羅猛はその鎧をまとう他に、羅族を語る術を持たなかった。

 七年ぶりに会った黒葉は彼に初めから羅族であることを、族長であることを要求したし、羅猛もそれに応えた。記憶もあやふやな故郷、可南に帰って来たその日から、羅猛は既に族長であったし、そうあらねばならなかった。それからずっとこの二人は、その年齢の差にもかかわらず、長と配下の関係であった。そしてその関係を保とうと努力するあまり、彼等の間には、ねぎらいや、思いやりの言葉や、腹を割った打ち明け話や、そんな必要以上の親密さが入り込む余地は無かったのだった。この十年もの間。

「黒葉」
「……ああ?」
 ぼんやりと物思いにふけっていた黒葉は、ゆっくりと目を上げた。広場の端に二人で座り込み、競うように飲み続けていた酒が、いささか回って来ているようだった。
「感謝してる」
「………」
「お前には、感謝してるぜ。口では言えないほど。お前は俺との約束を守った。それを忘れた事はない。これからも、忘れやしネエ」
 酒の器を手でもてあそびながら、羅猛は淡々と言った。
「……ふうん」
 黒葉は言った。
「それは、知らなかった」
 羅猛は、ニヤリと笑った。そして立ち上がった。
「もう二度と言ってやんネェぜ、こんなオイシイ事はよ。じっくり味わいな」
 指を立てて合図をして見せる。
「……じゃあな。お休み」
 その後ろ姿を、黒葉は黙って見送っていた。自分の胸に湧き出てくる感情を計りかねながら。この気持ちは、一体何だろう。感動? 後悔? 追憶? いや、どれも少しづつ違う。
 これは----不安。そう、不安だ。
 黒葉は我知らず立ち上がっていた。なぜ自分はこんなに不安なのだろう?


 夜明けはまだ、遠い。若木に萌える可南の山を、月がこうこうと照らし出している。
 頂の下方ではもう二晩目になる祝宴のざわめきが続いていた。昨日眠らせてもらえなかった剣は、既に自室でぐっすりと寝入っている。
 羅猛は、皮の袋をそっと肩に担ぎ上げた。細剣を腰に下げ、弓矢を背負えば、身軽な彼の旅支度は終わる。必要な物もさほどない。八歳の時にも、ほぼ弓矢一つで辿った道だ。

 気配。
 振り返る前に、それが誰かは解っていた。
「よォ……黒葉」
 仕方なさそうにニヤリと笑う羅猛に、だが黒葉は笑みを返さなかった。口笛の合図もせずに頂に来たのは初めてだった。
「羅猛」
 低く、黒葉は言った。
「……どこ行くつもりだか、聞かせてもらおうじゃネェか」
 羅猛は肩を竦めた。
「何処へ行こうが、俺の勝手だ」
「……ぬけぬけと……」
 だが黒葉の口調は、彼らしくなく、静かだった。浅黒い顔には微塵の感情も表われてはいなかった。
「黒葉、俺を見張ってたのか? 一晩中? ご苦労なことだな」
「頂を降りる、とお前は言ったな」
「ああ」
「だが、しばらく世話になる、とか言ったっきり、いくらせっついても次の家も決めねえ。これからのこともまともに話し合おうとしネエ。おかしいと思ってた所に、即位の夜の捨て台詞だ。それで俺がナンも感じねェとでも思ってたんなら、お前はほんまモンの大馬鹿野郎だ」
「……そうだな」
「言いな。どこ行く」
 黙り込むと、祭りの嬌声が頂へ這い登って来る。しばしそれに耳を傾けるかのように羅猛は動かなかった。そして言った。
「俺は、お前と約束をした。そしてそれはもう果たした」
「………」
「俺にはもう一つ、約束がある。……だがお前との約束が先だった。だから帰って来た。そしてそれが終わった今」
 羅猛はその目を、一瞬上へ向けた。はるか可南の頂よりなお高く高く、そびえる雪の山へ。だがすぐに黒葉に目を戻し、彼はニヤリ、と笑った。
「……ソッチにいかなきゃなんネェのさ。悪イな。見逃せよ」
 黒葉は目を落とした。
「約束の安売りなんかしやがって」
 引き留めるつもりは無かった。昔から、本当に彼は一度も羅猛の言葉に逆らった事はなかったのだ。
「……ほんとに馬鹿なヤツだな。どうしようもねえ」
「ああ。全くだ」
 羅猛は再び微かに笑った。そして言う。
「じゃあな。元気でやれ」
 それはまるでまた明日出会う二人であるかのような、そっけない調子だった。
「……帰って来るか」
 その背に向かって、黒葉は小さく聞いた。羅猛は振り向かずに肩を竦めた。
「……もう、約束はできネェな……」
 指を立てて合図をすると、そのまま崖の端に寄り、飛び降りるがごとくにその姿は消えた。だが崖際に寄った黒葉の目には、彼がその切り立った崖を、ツタや木の根を伝いながら、器用に滑り降りて行くのが見えた。その姿が無事に谷底に付くまで、彼はじっと羅猛を見守っていた。

 そして岩を伝って歩き出した背中に向かって。
 黒葉の喉からふいに叫びが漏れた。まるで獅子の咆吼のようなその声は谷を揺るがし、木霊を返し、山の間をいつまでもさまよって消えなかった。
「……羅猛ーーーっ!」
 羅猛は振り返り、谷の底から黒葉の顔を見上げた。
「……帰って来い、必ず帰って来い……いいなーーっ!」

 二人は再び見つめ合い----そして春の明るい月は、谷底の岩々にこうこうと照り映え、透き通った白い光がそこを一面の雪野原であるかのように照らし、はるかな祭りの笛の音は、吹雪の叫びのようにも耳に届き----それはほんの一瞬だったに違いない。だが、密かに扉の影から彼等の姿を見守っていた剣には、それは永遠にも近い、長い、時間だった。二人の影が、白い月に凍りついてしまったかのように。
 だがやがて羅猛は黒葉に背を向け、歩み去った。八歳の手負いの子猫ではなく、二十歳を超えた若猫の確かな足どりで、彼はその姿をじきに山裾に隠した。
 そして羅族は、可南から遂にその姿を消したのだった。


 剣が側に歩み寄っても、黒葉は動かなかった。ただ、剣に話しかけるような、また独り言ともとれる、呟きを洩らした。
「……ヒデエヤツだ」
「黒葉……」
「……あんな、ひでえヤツは、見たことネェ」
「………」
 静かに剣の顔を振り向くと、黒葉は苦笑した。
「なあ、剣。オメエは、どんな族長になったっていーよ。その石ミテエなだんまりも、最近気になンなくなって来たしナァ……だがな……」
「………」
「だがな……アイツみたいなヤツにはなるな。死んでもなるなよ……。そンなことになったらよ、俺はもうつきあってやらネェぜ……」
 黒葉は彼に背を向け、頂を去った。
 剣は瞳を上げ、遠い雪の頂を、一人見つめていた。月が沈むまで。
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