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XVI.  策略
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「痛えよ。もう少し優しくやってくれよ」
 アロンは顔をしかめた。
「仕方がないでしょ。この染め粉はなかなか落ちないのよ。だいたい雨が降ったくらいで色落ちしたら、せっかくの計画が台無しになったわ」
 光杏は容赦がない。悲鳴を上げるアロンの頭を、嫌な匂いのする葉っぱでゴシゴシと擦り続けた。やっと彼の髪は元の輝きを取り戻しつつあった。
「なかなか良く似合ってたぜ、アロン。黒髪もさ」
 アルバがニヤニヤ笑って言う。
「そのままなら自然種の仲間入りも出来たぜ。きっと」
「やめてくれ」
 今度は苦痛からではなく、アロンは顔をしかめた。
「そんなことをするくらいなら、フェンスの中で滅びた方がまだましだ」
「それにしてもよ」
 ニヤニヤ笑いを止めずに、アルバは続けた。
「やっぱり春水は策士だぜ。さすがにここまでは考えつかなかったな。自然種やっつけンのに人間使おうなんてさ。奴等が互いに殺し合うの横から見てるなんざ、なかなか痛快だぜ」

「首尾はどうだった」
 光蟻が脇から聞いた。
「ああ、バッチリよ」
 カルムが得意げに言う。
「一人はちゃんと逃がしたぜ。それに殺ったのはハンターだけじゃねェ……いわゆる人間の重要人物、って奴をなあ」
 過酷そうな笑みが、ふとその頬に浮かんだ。
「今頃はヴィレッジどころか、タワーも大騒ぎよ。黒髪の猫がまた人間を殺したってな」
「そうか……」
「春水に報告しておいてくれよ。これでだいたい計画は終了か?」
「ああ、そうだな。もう充分だろう。あとは結果を見守るだけだ……」
 光蟻はその場を去り、春水を探しに歩いていった。


 風の強い丘の上に彼は立っていた。エドムで名乗っていたアロンの名も既に本人に返し、彼はやっと残り少ない自分の一族から元の名で呼ばれるようになっていた。
「春水様」
 春水は静かに振り返った。その顔に以前の優雅な微笑みは無い。この方は変わった、とふいに光蟻は思った。儚げな笑みを捨て去ったその顔は、もうどこから見ても女猫のようには見えなかった。長身の、しなやかな筋肉を全身に纏った、それは既に牡猫のそれであった。彼が楽々と金種を従えたのは、その見かけによらぬ強さと賢さ、そして平原を生き抜く知恵----それによるものだけではなかった。金種達は春水の力を認めるよりも早く、誰が言い出すまでもなくいつの間にか彼を「当主」として認め、恐れてさえもいた。かつて春草の憧憬を一身に集めていたたおやかな優美さの替わりに、誰もが従わざるを得ない冷酷な厳しさを、どこかしら獰猛とさえ呼べる威圧的な雰囲気を、今の春水は全身から発していた。

「光蟻か。どうだ、首尾は」
「はい。全て、計画通りに」
「そうか」
「……春水様」
 おそるおそる、光蟻は言った。光族の直系、光嚥の兄として比較的春水の側にいた彼とて、当主に意見することには決して慣れてはいなかった。
「何だ」
「……これで、こんなやり方で、本当に良かったのでしょうか。私は……」
「臆したのか、今更」
 春水は僅かに唇をゆがめ、蹄く光蟻を見下ろした。
「お前達は、可北に帰りたい、と言ったな」
「……はい」
「ここで……この貧しい危険な土地で春草を密かに増やして行くのか、それともどんな手を使ってでもあの山に帰りたいのか、僕は皆に選ばせたはずだ。そしてこの道を、お前達が選んだのではなかったのか?」
「ですが……」
 光蟻はためらった。
「……ですが……」
「人間を可南に招き入れるようなことはしたくないか? それならば、生きている間に可北を拝むのは諦めることだ。今居る数を全て使って可南を襲撃したところで、まだ金種共は戦の役になど立つものか。だいたい可北を知らない奴等は、実際に自然種との戦いになれば必ず尻込みするだろう……今はまだ女という甘い餌と、楽園のような可北の物語に夢中になってはいるがな」
「……はい」
「今、真正面から可南と戦った所で、勝利を得るのは夢のまた夢。例え奴等を滅ばした所で、春草を存続できるほどの数が残るものか。それに、後のことを心配することはない。人間を襲撃したのは色付きであって、決して金種ではないのだからな」
 くすり、と春水は笑った。
「………」
「一度可南に大打撃を与えれば、人間共は二度と丘陵になど近づくものか。城壁から遠く離れたあんな厳しい場所に、本来なら彼等は何の用もない」
「……はい……」
「今更臆病なことを抜かすのなら、始めから春草復興などに荷担しなかったことだな。それが一筋縄ではいかないことは……お前が一番良く知っていたのではなかったのか」
「はい……その通りです」
 光蟻は頭を振った。どのみちここまで来ては、もう後に引きようがないのだ。
「申し訳……ありませんでした。春水様。もう二度と申しません」
「そうすることだな。もう二度とは聞かん。用が済んだら下がれ。あとは計画の行方を見守るだけだ」
「はい」

 光蟻は丘を後にした。一度後を振り返り----彼は自分が昔から崇拝していた当主を、今はその崇拝はそのままに、恐れてさえいるのを知り、僅かにその体を震わせた。
 そうだ、あの方は、お父上に似てこられたのだ。
 光蟻はぼんやりと思った。白い頬に浮かぶあの過酷な表情は、狂猫とも言われた春風のそれに生き写しだった。

 一体春草とはどんな種族であったのか。一見争いを好まず、美を愛で美食を愛し、おだやかで優雅な生活を好むと見せかけ、だが彼らは結局猫なのだ。短気で好戦的で、以前あれほど春水が諌めたにも関わらず結局可南に刃を向け、争いを呼んだ。春風が可南に争いを仕掛けたのも、結局正気を失ってのことではなかったのかもしれない、と光蟻は思った。当時まだ幼かった彼はその理由を知る由も無かったが、結局はその争いも、春草の血、猫の血が呼んだものではなかったのだろうか。生き物を殺めるのにまだ慣れぬ金種達でさえ、ニヤニヤと楽しそうに笑いながら人間を殺しに行くのだ。

 だが、もう迷うことはすまい、と光蟻は自分を諌めた。春水は彼らの長として、再び可北を取り戻そうとしているのだ。一族をこれ以上減らさずに故郷の山へ帰るためには----その方法が確かに一番良いのだ。どのみち彼の迷いを、春水が二度と許さないであろうことは明白であった。深く溜息をつき、溜息をついた自分を再び諫めつつ、光蟻はのろのろと丘を下って行った。

 春水は、光蟻が去ってもその場所を動かなかった。平原のはるか彼方、灰色の雲の下にかすむ鋭い山影を、彼はいつまでも見つめていた。やがて彼の唇に不思議な微笑がもれた。冷たい、だがどこか夢見るような、まるで彫像のようなその笑みを浮かべたまま、彼はただ遠い山を見やっていた。
 そこに、剣がいた。その頂に。
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