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XX.  園
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 ちらちらと、雪が舞い始めた。
 羅猛は舌打ちをした。晴れた日を選んで可南を出てきたのではあったが、中腹近くまでたどり着くのに、既にもう二日を要していた。山全体を覆う激しい吹雪に巻き込まれては、まず生きてそこにたどり着くことは出来ない。彼は足を早めた。凍り付いた岩々が行く手を阻んだが、僅かなくぼみに足を入れ、危なげなく彼は山を登って行った。もう二度も通った道だ。彼の足どりは確かだった。やがて遥か上方に、その小さな洞窟が目に入った。


 男は、老いていた。
 実際にはまだ三十を越えたばかりだったのだが、日々、自分が老いて行くのを彼は感じていた。特に、妻を失ってからは。
 足を引きずるように洞窟の奧へ進むと、行き止まりに立ちふさがる氷の壁に、彼は髭だらけの頬を押し当てた。堅い半透明の氷壁の奥深くに、一人の女が眠っている。その姿はまさに眠るように、口の端に微笑みさえ浮かべていた。腹を割く大きな傷に、変色した血の後がまだ残っている。

 まだ息のあるうちに自分をこの中へ埋めて欲しいと、妻は細る息の中から夫に懇願した。それは、終わりかけた一族の長年の習慣でもあった。そうすれば、自分はいつまでもその姿のまま夫の側にいられることを、彼女は知っていた。男は、その望みを叶えてやった。大剣と鍬で半日をかけ、彼は氷の壁を深く掘った。自らの手も血にまみれたが、それは既に問題にならなかった。妻をそこへ置いたとき、彼女は僅かに微笑んだ、と見えた。削り取った氷と雪をまだ温かい体に厚く被せてからも、彼女は微笑み続けていた。そして男は一人残された。

 それからというもの、彼はこうして妻の側で、追憶と孤独な昔語りにその身を委ねながら、眠るように、半分死んだように、日々を送っていたのだった。巨大な氷の棺は、滅び行く一族最後の女にいかにも相応しい寝台だと、彼には思えた。そして、最後の男である自分自身にも。山を歩き野を駆けた山の民の、まさにここが終焉だった。


 可南、と彼等はその山を名付けた。はるか昔の忘れ去られた神話の、それは地名らしかった。獲物を狩り、木の実を採り、彼等山の民は飢えることを知らなかった。なだらかな中腹に固まって家を建て、彼等は平和に暮らしていた。だがそれも昔語り。

 尖った耳を持つ生き物達は、いきなりその山に現れた。彼等は容赦が無かった。日々戦いが繰り広げられたが、次第に山の民は数を減らし、そして追いつめられるように雪山へと登った。少しでも可南に近付いた者はすぐに殺された。恐れおののき、山の民はその住居をはるか雪山の上へ上へと引き上げた。そこまでは、猫達も追っては来なかった。そこで彼等の生活が始まった。氷の間から苔を掘り、岩と雪の上で雪羚羊を追った。狩りに慣れた彼等は、それでも数代は生き延びた。だが、決して消えることのない雪と氷が、彼等の人数を次第に減らして行った。赤ん坊はなかなか生まれず、生まれても生き延びなかった。そして、今。


 男は洞窟を出た。食料が尽きていた。だが既に彼は獲物を追う気力さえなくしていた。弓矢と大剣を手にしてはいたものの、ただあてもなく岩の間をさまようだけだった。
 その足が、雪に埋もれた何かをを踏みつけた。
 まだ暖かい小さな身体を、男は雪の中から掘り起こし、そして足下にじっと見下ろした。一匹の幼い猫。初めて見たその生き物は、昔父親の語りに出てきた「彼等」とそっくり同じ形をしていた。尖った耳の形から、それは彼の遠い仇と知れた。滅亡にまで追いやられた一族の最後の一人として、男はその生物に向かって、恨みのこもった太刀を振り上げた。その時、子猫が僅かに身じろぎをした。男の手が止まった。彼は迷い、また迷い、そしてその小さな体を持ち上げ、洞窟へと持ち帰った。すぐに彼は再び洞窟を出た。今度は確実に獲物を持ち帰るために。小さな彼の息子のために。


 男は全ての武器の達人だった。生きて行くために身に付けた自分の技を羅猛に教えることを、彼は心から楽しんでいた。羅猛は教えがいのある弟子だった。
「この分なら、お前はすぐに俺より強くなる」
 彼は満足そうに言った。大きな手で子猫の金茶の髪を撫でた。羅猛は目を細めてそれをじっと味わった。そして照れくさそうに答えた。
「……無理だ。体が違う」
「すぐに追い付く」
 羅猛は、彼を見上げた。小山のようなこの男に自分がその背で追い付くことがあろうとは、とても思えなかった。
「アンタは、強い」
 感心して、羅猛は言った。
「それに、大きい。黒葉みたいに」
「友達か。どんなヤツだ」
 羅猛の顔が明るくなった。
「……大きくて、強いんだ。アンタより強いかもな。優しくて、いいヤツなんだ。俺は……大好きなんだ。親父の次に」
「そうか」
「俺を、逃がしてくれた。約束したんだ。必ず、帰るって。強くなって、帰るって」
 男は微笑んだ。
「心配せんでも、お前もすぐに大きくなる。強くなる。帰る頃には、黒葉より大きくなっているかもしれん」
「まさか」
 羅猛は笑った。そして、ふと顔を曇らせて尋ねた。
「……俺が帰ったら、アンタはどうするの」
 男は、自分の名前を羅猛に告げなかった。どのみち二人だけのこの世界では、互いの名は大して重要なことでは無かった。
「心配せんでもいい。なんとかやって行くさ」
「でも」
「約束したんだろう。その黒葉と。必ず帰ると」
 羅猛は頷いた。
「約束は、守らにゃいかん」
 男は言った。


 二日に一度は、その洞窟は吹雪に閉ざされた。そんな時、男は焚き火のそばに座り、子猫の金茶の頭を膝に抱き、様々な話を聞かせてやるのだった。氷の中の妻のこと。彼の子供時代のこと。山の民の、様々な神話。
 中でも、「その国」の話が羅猛は好きだった。いや、むしろ男が、その話をするのを好んだ。それは山の民に古くから伝わる伝説らしかった。
「そこには、庭があった」
 いつも同じ言葉で、彼は話し始めた。その、平和な国の物語。緩やかな四季を通して緑が茂り、花々は季節毎に香り、虫が騒ぎ、鳥達が湖に群れをなした。大きな荒ぶる神の怒りを、山々に隠れたそこは、逃げ仰せた。だから生き物は皆健康で、猫と人間は争うことなく平等に、仲良く暮らしていた。その平安を祝い、彼等はその中央に、美しい平和の園を作ったのだった。

 その物語に出てくる不思議な動物達が、羅猛は好きだった。聞き慣れない名前の生き物達は、木より高い長い首を持っていたり、物を掴める長い鼻を持っていたり、馬であるのに背に翼を持っていたりするのだった。
 だが何より、その庭について語る時、男の言葉には熱がこもった。清らかな泉をたたえ、美しい陶磁で飾られた平和の園。それは男にとって全ての幸福、平安、安らぎの象徴だった。そしてその国は、この雪山を越えたすぐ向こうにある、と男は言った。

「それならさ」
 羅猛は言った。
「何でアンタ達は昔、そこまで行かなかったの。こんな所に住んでないでさ」
「この山の頂は」
 男は言った。
「高く尖った岩の固まりだ。とても越えられやしない。女子供を連れていれば、なおさらだ。だが俺一人なら……そうだな。試してみた事はない。アイツがいたからな。昔は……子供もいた」
 思いを馳せるように、男は黙り込んだ。
「……だって、アンタはもう一人だろ。アンタは強い。試してみればいい。行きたくないの?」
「行きたくないかだって!」
 男は大声を出した。彼が声を荒げたのを聞いたのは、その時たった一度きりだった。
「行きたいさ。行ってみたいとも。ああ、見てみたいよ……陶器のカケラを敷き詰めた小道を歩いて、その美しい泉に両手を浸すんだ。暖かい水だ。凍ってなんかいない。その上を鳥が泳ぐんだそうだ。色の付いた花なんて、俺は見たこともない。秋の夜にちりちりと鳴く虫の声ってのは、どんなものなんだ。背に翼を生やした馬に乗って、空を駆けたら、どんなものが見えるんだ。……ああ、行ってみたいよ……」
「だから、行ってみればいい」
「いや」
 ふいに、男は老いさらばえた顔に戻り、背後にある氷の壁を振り返った。
「こいつを置いては行けん。俺はこいつのそばにいてやりたいんだよ。死ぬまでずっとな」
「そう……」
 眠そうな声で、羅猛は呟いた。いつもその話を聞きながら、羅猛は彼の膝で眠ってしまうのだった。


「行くのか」
 男は顔を上げた。
「ああ」
「そうか」
 彼は立ち上がると、羅猛を見つめ、目を細めた。
「大きくなったな。もうそんなに俺と変わらん。これなら、大丈夫だ。黒葉って奴も、喜んでくれるだろう」
 そうして見ると、彼は決して大男ではなかったのだ。黒葉と並べば、顔半分よりもっと小さかったのだろうか。
「アンタも一緒に来ないか」
 羅猛は言った。
「いや、それは出来ない」
 男は首を振った。
「俺は、人間だ。俺達は昔、可南を追われた。そこに帰ることは出来ない。可南に帰っても、俺のことは誰にも言わないでくれ」
 不思議な面もちで、羅猛は彼を見つめた。男が人間だということを、そういえば彼は考えたこともなかったのだ。雪と氷に埋もれたこの山においては、猫も人間も等しくただの生き物であった。
「それに」
 男は後ろを振り返った。
「前にも言ったろう。俺は、アイツを一人にしたくはない。俺はここに残る。お前は、帰れ。猫の山へ」
 彼は再び羅猛に背を向けて腰を下ろした。
「行け。元気で、いろ」
「ああ……あんたもな」
 洞窟の入り口で、羅猛は振り返った。
「俺は……帰ってくる」
 男は無言だった。
「帰ってくる。そして今度は、アンタが死ぬまで側にいてやる。……約束する。だから、それまで必ず生きていてくれ」
 男は、振り返らなかった。そして羅猛を追い払う素振りで手を振った。
 羅猛は、山を下った。可南へ。彼の故郷へ。


「ああ……」
 羅猛は呟いた。
「やっぱりナァ……」
 冷たく横たわる躯へ、彼はゆっくり歩み寄った。
「間に合わなかったなあ……」
 傍らにしゃがみ込む。氷の壁に貼り付くように倒れた躯は、もう何年も前にその死を迎えていたと思われたが、まだ腐り果ててはいなかった。
 男に話しかけるように、彼は呟き続けた。
「何だかんだ、俺はいつもノロマだったよナァ……」
 そして、ふと笑う。
「やっぱり俺は、ホンマもんの大馬鹿野郎みたいだな……」
 氷の壁の中で、女はまだ微笑み続けていた。女の身体のまた奥にも、やはり幾つかの躯が埋まっているらしいその氷の壁は、これからもずっと、亡び去った一族の棺としての役目を果たしてくれるのだろう。遺体の位置から考えると、恐らくその氷は上から流れ落ちる水のために、少しずつ前へと膨らみ続けているに違いなかった。そのうち雪山は凍りついた腹の中に、山の一族ををその昔語りごと、すっぽりと飲み込んでしまうのだろう。

 羅猛は立ち上がると、氷の壁を掘り始めた。美しい黒髪の女の体に届くまでに深く掘ることは既に不可能だったが、それでもそれは長い作業だった。岩のように堅い氷壁は、羅猛の大剣を何度となくはねつけた。だがやっと浅い穴を掘り終わると、彼は男の躯を氷で埋めた。
「ちょっと浅いけどな。これで我慢してくれよ。先を急ぐんでね」
 しばし彼は立ちすくみ、距離を置いて並んだ二つの体を見つめていた。
「で、アンタは今、平安の園にいるのかい?」
 やがて、彼は優しく呟いた。
「奥さんと、仲良くやンな」


 雪は止んでいた。日もまだ高い。さっきまで雪を落としていた雲も山頂から遠ざかり、珍しく雪山の全貌がくっきりと姿を現していた。ぎざぎざと尖った岩の頂は、だがまだ遥か上方にある。手をかざして、羅猛はしばらくその形を計るように見つめていた。
 やがて彼は、歩き出した。岩の隙間のまだ凍らない雪を探し、僅かに生える草の根を足がかりに、初めて辿る雪の道を、今度は体中に緊張を漲らせて、彼は登って行った。険しい山頂をめざし、遥か彼方に彼を待っている幻の園を目指し、彼はもう歩みを止めなかった。
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