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XXI.  巫子
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 崖上の小さな村は、既に雪に埋もれていた。
 懐かしい雪の庭を、剣は黙って見つめていた。ここを最後に訪れてから、もう四年の月日が経とうとしていた。族長の突然の訪問に女達が村中を走り回っている。あわただしいもてなしを全て断って、剣は幼い息子と向き合っていた。

 おどおどと、簓はその部屋に入ってきた。紫の光を全身にまとって頂を訪れた、あの夕の不思議な威厳は今は無い。秋数えで五歳になったばかりの、ひ弱な子猫の姿がそこにはあった。礼儀正しく剣の前に座り、上目遣いにそっとその長身を見上げている。簓本人としては、物心付いてほぼ初めて見る父の姿だ。

「簓……」
 剣はぎこちなく微笑みかけた。その黄金の髪を見ると----まだ胸の隅が激しく疼くのを止めようもない。大きな紫の瞳を包む青白い顔は、以前にもまして実の父の面影を宿しているようであった。
「お前のお陰で、可南は救われた。礼を、言うよ」
 不思議な面もちで、簓は剣を見上げた。自分が何かに操られて頂を訪れた記憶はあったが、それは彼にとって「あれ」にやむを得ず従っただけのことであり、自身が可南の救済者となった自覚は無かった。

「お前は……」
 剣は言葉に詰まった。自らの激情に負けて息子を手放した事を後悔してはいなかったが、それはあくまで彼自身の理屈であり、息子が幼くして味わわねばならなかった孤独の日々への言い訳にはならなかった。
「昨日、剣がね」
 簓が小さな声で、短い沈黙を破った。
「……夢に、出てきたの。だから今日会って、すぐに剣だって解ったの」
「………」
「剣がね、僕に、ご免、ご免って……何回も言っていたの。僕にはそれが、解らなかったの」
「簓……」

 剣は苦しそうに顔をゆがめた。自分も幼い頃に両親を亡くしており、身近にその愛を受けることの出来ない寂しさは充分に解っているつもりだった。だが兄と姉が身近にいてくれた自分に比べ、簓は本当に一人きりだったのだ。親族も友もなく、自分を次代の巫子として崇め奉る女達の中で、この幼い息子がどれほど孤独な日々を送って来たことか。それは全て自分の弱さのせいだった。そしてその忌むべき感情をまだ自分が克服していないことを、簓の黄金の髪を前に、剣はまざまざと思い知らされていたのだった。

「簓、俺はお前を……一人ぼっちにしたよな。この寂しい巫子の村に、お前を一人にしていた。それを、恨んだことは、ないのか?」
 言うつもりのなかった言葉が口から出ていた。簓は不思議そうに、首を傾げた。
「僕は、一人じゃないよ、剣」
「簓?」
「ここには、みんないるよ。僕は一人だったコトなんてないよ。僕には、剣とか他の猫達の方が、一人に見える」
「みんな……?」
 大きな紫の瞳を、剣はじっと見つめた。兄も同じような事を言ったことがあった。同じような微笑みを浮かべて、兄はいつもその雪の庭を嬉しそうに眺めていたものだった。
 剣は言った。
「簓、頂に……来るか?」
「どうして」
 驚いて、簓は言った。
「行かないよ、剣。僕は行かない。僕は巫子だもの……ここにいるよ」
「簓……」
「それにね」
 考え深そうに、彼は言った。
「僕がここに一人でいることは……きっと剣が決めたことじゃないの。誰かがそう決めて、そうしろって剣に言ったの。僕が早く、巫子として目覚めるように。そうなるように、始めから決まっていたの……だから僕は、どこにも行かないよ。ここにいる。僕はね、巫子だから」

 それはとても五歳になったばかりの猫の口から出た言葉とは思われず、剣は口を開き、また閉じた。そこにいたのは、既に巫子だった。一体いつの頃から、簓は自分の力に目覚めていたものだろうか。初めての神卸を体験するずっと前から、「あれ」の気配を彼は身近に感じていたものに違いなかった。希代の巫子と讃えられた剣の兄でさえ、八歳を迎えるまではその存在に気付くこともなかったと語っていた。剣は寂しい雪の庭をこっそりと見渡した。今も彼等はここにいるのだろうか? 剣には決して見ることの出来ぬ未知の姿で、未知の言葉で簓に語りかけているのだろうか? 畏怖の念が、剣を襲った。兄に対してさえ感じたことのない、それは恐れにも似た感情だった。

「それに、剣は」
 はっとして、剣は顔を上げた。あどけなく首を傾げたまま、簓はじっと父親の顔を見つめていた。
「……本気で、言ってない」
「簓……」
 愕然と、剣は表情をとりつくろう事を忘れた。簓は微笑んだ。兄に似た寂しげな微笑みだった。
「僕ね、ここにいたいの。ここが好きなの。それが一番いいと思うの。僕は、巫子だから。許してくれる? 剣」

「巫子……」
 のろのろと、剣は言った。息子に対する愛情を取り戻そうとして、彼とて戦わなかった訳ではない。今日ここに来たのもそのためだった。こわごわと、自分の気持ちを確認しに来たのでもあった。だが今彼が感じていたのは、理解しがたいものに出会った時の恐怖の念であった。何故だろう。兄の簓と一緒に育った彼であったのに。兄に対しては一度も恐ろしいなどと思ったことは無かったのに。
「巫子、か……」
 ゆっくりと、剣は呟き、そして立ち上がった。何か暖かい言葉をかけてやりたかったのだが----。それはどう選んでも白々しいものとなりそうだった。目の前にいる巫子にその白々しさを見抜かれ、侮蔑の笑みがその唇に浮かぶことを剣は恐れた。そして何よりも----簓がその力を以て、実の父のことを既に知っているのかもしれないと、そして自分を憎んでいるのではないかと----それを、剣は恐れていたのかもしれなかった。

「……元気で、やれ」
「うん、剣も」
 彼等の短い挨拶は父子のものではなく、族長と配下の間に礼儀正しくかわされるそれであった。小屋を立ち去る剣を、簓は立ち上がり、見送った。
 肩を落とし、剣は崖の小道を降りて行った。簓は、巫子なのだ。既に自分の息子ではない。力なく、剣は自分に言い聞かせた。そう考えれば、彼に父親としての愛を感じられずにいる自分を責めずにいることが出来そうだった。可南を支える巫子として、簓を大切に考えてやることが出来そうだった。
 愛する者達のいる頂へ、剣は慰めを求めて帰って行った。既に簓が自分に対して何も求めていないように見えたことが唯一の救いだった。


 敷布の上にぐったりと身を沈めて、簓は父の姿が小道を消えて行くのを眺めていた。自分の巫子としての振る舞いが、今日父を恐れさせ、また若干安堵をもさせたことを、彼は知っていた。生まれ持った特殊な力を別にしても、彼はその歳にしてはたぐい希なほど賢い子供であった。それはここで送った孤独な日々が、無理矢理彼に与えたものであったかもしれないけれど。
 だが今床に座り込んだ姿は----弱々しい、頼る者のないただの一人の幼猫であった。誘うように身に纏い付く「あれ」の気配を、うるさそうに彼は払いのけた。そして辺りを見回して人気のないのを確かめてから、彼はそっと呟いてみた。

「……お父さん……」
 その禁じられた言葉を、愛しげに、簓は繰り返した。誰にも届くことのないように、声をひそめたまま。
「お父さん……」
 暖かそうな父の背中は、もう視界から消えていたけれど。自分の目の中にしっかりと焼き付けたその姿へ、簓はそっと手を差し伸べてみるのだった。
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