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XXIII.  結晶
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 そこには、庭があった。

 それは神々に約束された、永遠の都であった。行い正しき生き物たちは山々の間に隠れ、荒ぶる神の怒りを生き延びた。正しき神がそれを祝福し、都に永の安息を約束した。約束は、果たされた。寒すぎない冬と暑すぎない夏が彼等を祝い、花々と鳥達が季節毎に彼等を祝った。白い馬達が翼で諍いを払い、角で乙女達に清らかさを与えた。

 そこには、庭があった。正しき神への感謝と賛美のために、彼等はその庭を造った。清らかな泉には透き通った水草が揺れ、白い鳥がその水を祝福した。泉の周りには磨かれた陶磁がはめこまれた小道があり、全ての生き物たちが争いを捨て、そこに集った。そこには、庭があった----。


 凍てついた山の洞窟で、アルネはその古びた本を見付けた。錆び付いた大剣と弓矢と共に、それは氷の棺の前に供えるように置いてあった。随分と古い書体で書かれ、どこの民族の物か過去の伝説を集めたらしい本の、中でもその頁は、持ち主の愛着を示すかの如く折り曲げられ、読み返され、既に文字を読みとることが困難なまでに傷んでいた。タワーに持ち帰って修復すれば、あるいはそのいにしえの物語を改めて紐解くことが出来るかもしれなかった。

 アルネは顔を上げた。氷を掘る作業は着実に進められている。ほぼ完全に保存された女の姿を、彼は再び抑えきれない感動をもって見つめた。まだ若い娘の体を、おそらく雪羚羊の角によるものだろう深い傷が貫いている。

「蘇生は無理だろうな」
 アドラムが不安そうに呟いた。
「氷漬けになっていたにしても、そう最近死んだものでもなさそうだ。傷は胸だ。卵巣は無事だろうが、果たして培養が可能なものか……この氷の温度がかなり低そうなのは幸いにしても、完璧な保存状態とはとうてい言い難いからな」
 それに答えず、アルネはまだ暫く女を見つめていたが、やがて呟くように言った。
「見事だな……忘れていたよ。女の体というのは、こんな形をしていたんだな……」

 イムナも、言葉を失ってそれを見つめていた。黒い髪が女の体を縁取って、氷に漂うように広がっている。傷は深かったが、その裸体は完璧に昔の姿を留めていた。豊かな胸に、まばゆい腰の形に、ゆるやかな腕の膨らみに、彼は喰い入るように見入っていた。「女」の形を、イムナは知らなかった。タワーの立体映像で見たことはあっても、温もりを伴わぬ女の映像と、例え死んではいてもこの黒髪の女の姿は、全く違っていた。死の色に被われていてもなお、その造形は美しかった。白く凍った顔の、瞳が、唇が、今にも開きそうで、イムナはそこから目を離すことが出来なかった。その唇が語り出す未来への予感を----彼は密かに聞いていたのかもしれなかった。
「神話の……生き物だな」
 イムナは呟いた。
 アルネは微笑んだ。もう永く、人間達の神話であったその生き物が、彼等の夢の結晶として、今確かに目の前にあった。


 思えば誰もが----それぞれの神話を追いかけていた。
 昔、タワーに迷い込んで来た黒い目の生き物は、人間という神話に囚われてそこまでやって来た。彼を迎え、送り出したリーガは、猫の故郷である西の丘の神話に囚われて、平原をさ迷うようになった。遠い目をして----生き物たちは、なぜ神話を語るのだろう? まだ見ぬ故郷、行ったこともないのに懐かしい場所、聞こえないはずの歌。幸福やうつくしさがただ一瞬にして消えることに、人はあまりにも早く気付いてしまった。さもすれば本当の幸が生き残れる場所は、神話の中にしかなかったのだろうか。過去や未来の夢語り。どこか「ここではない」場所の中にしか。

 女の傍らに眠る男の屍に、アルネは静かに視線を移した。その朽ちかけた体は、残念ながらもう彼等の役に立ちそうにはなかった。彼女の、夫であったのであろうか。一人の男と、一人の女。人間達に忘れ去られたその生活を、彼等はここでどのように送って来たのであったろう。
「奥の方にも遺体があるみたいだけど」
 イムナが言った。
「あれは、ダメだな……もう古すぎる」
 アドラムが答えた。
「それよりも、二人を最近になって埋葬した人間が、確かにいたはずだ。この女と男を埋めて……残った奴等は何処へ行ったんだろうな。男ばかりだったのか、女もいたのか……山を越えて行ったんだろうか」
「いや、それはないだろう」
 アルネがぼんやりと答える。
「あの頂は……ボートでさえ越えるのは不可能だよ。突風が渦を巻いているからね。人間業で越えられるもんじゃない。おそらくは山を下りてどこかへ去ったか、猫に殺されたか……いずれにせよ、もう僕等がこちら側に来られない以上、探すのは無理だろうな」
「剣がここの情報を握っていたのなら、彼は知っていたかもしれない。あるいは彼がこの男を埋葬したのか?」
「だとしても彼は、僕に告げなかった。あの時言おうとしなかったのだから、もうこの先もその可能性はないだろう」
「惜しい事をしたな」
 悔しそうに、アドラムは呟いた。
「生きている女に巡り合えたかもしれなかったのに。この遺体から、果たして使える卵子が採れるものか……たとえ培養出来たとしても、たった一人では最終的な解決にならないかもしれない。この卵子からも、男しか生まれて来なかったら……」
「大丈夫」
 アルネは微笑んだ。
「彼女の卵子にリーガの精子を合わせて……。きっと黒髪の女の子が生まれるよ。男の子もね。何人も何人も。リーガの子供だ。その男の子の精子を、今あるアングロサクソンの卵子に再び合わせるんだ。きっと健康な金髪の女の子が生まれてくる。人間は、今ある十人分と黒髪の彼女、合わせて十一人の母を持つことになるのさ。それで十分だ」
「アルネ……根拠は?」
 アルネは笑った。
「カンだよ。僕のカンは当たるんだ」
「随分、楽観的な推測だとは思うが」
 アドラムも微笑んだ。
「……信じてみたくなるな。そのカンとやらをね」
「大丈夫。だいたい人間は、もともとたった一人の母親から生まれて来たんだろ? もう何を恐れることがある? 僕等は見付けたんだ。僕等のイヴをね。人間は、新しい母の元に生まれ変わるのさ。そうしてフィールドに満ちるんだ……」

 仕方なさそうに、アドラムは首を振った。アルネのロマンティシズムは度を過ぎているように彼には思えたが----それでもその言葉は一瞬アドラムの胸に、鮮やかなイメージを呼び起こした。フェンスを越え、それぞれの女を側に携え、逞しくフィールドに歩み出して行く新しい人間達の、まばゆい姿。その映像に、彼は瞬時酔いしれた。どのみち、ここにいる誰もが、今はその視線を女に奪われていた。彼が多少涙ぐんだところで、誰にもそれを気取られる心配は無かった。

「……アルネ」
 物思いに沈んでいたイムナが、ふとアルネを振り返った。
「あの時さ……どうして剣に、リーガのこと言ってやンなかったのさ。あんなに知りたがってたじゃないか。あの顔見れば、一目瞭然だろ」
 しばしの沈黙の後に、アルネは答えた。
「そんなこと……剣に言える? 僕には言えない。君が、言えば良かった」
 イムナは口をつぐんだ。ぼんやりと、アルネは呟き続けた。
「剣に、言える? リーガが、猫に……」
「………」
「……どうせ剣とはもう二度と会わない。彼の心の中だけでもリーガが生き続けていれば、それでいいじゃないか……」
「……もう一度、復活させればいいんだよ。せめてあと一代だけでもさ……そりゃ精巣は保存してあるけど、でもさ……」

 アルネは無言で首を振った。もし女を作ることが出来たら、あるいは見付けることが出来たら、もう彼を蘇らせることはしない、と彼はリーガに約束していたので。その度に、リーガは笑って頷いたのだった。それは何度も繰り返された、あまりにも神聖な約束だった。「彼女」の培養にもし成功して、タワーに初めての女性が誕生する日が来たら----その日、冷たく眠る幼い体を北の山に運び、アルネはリーガをそこに埋葬するつもりだった。もう何百年も前に彼が眠っているはずだった山へ。
「もう……いいだろ。彼の役目は終わったんだよ」
 リーガは、自らの死をもって猫との戦いを引き起こし、その結果として人間達に女をもたらしたのだ。そう、確かに彼はその役目を終えたのだ、とアルネは思った。


 そして、彼自身の役目も、既に終わりに近付きつつあった。城壁に住む人間は女を手にし、永い神話の追求に終わりを告げた。おそらく自分はその為の道標として生かされて来たのだろう。これからは、フィールド、いや、「平原」という名の新たな夢が彼等を導いてくれる。その示し手となるべきは既に自分ではなかった。それは、産み落とすが故に限られた命を宿す、女達の役目であった。そのしなやかな体をもって、女達は人間を平原へと導くのだろう。子を生み、育て、彼等はやがて平原に満ちるだろう。強く、彼等は育ち、フェンスを、タワーを、すぐに歴史の彼方へと消し去るだろう。そしていつの日か----その子供達に語って聞かせることもあるのかもしれない。昔この平原にひっそりとあった灰色の城のこと。凍った卵から生まれた弱い生き物達のこと。それが人間達の、新たな創世神話となるのかもしれなかった。

 果てしなく広がりかけた夢想を追い払おうと、アルネは頭を振った。まだそれは遥か先の話だ。タワーはこれから嬉しい忙しさに追われるはずだった。まず女の数を増やさねばならない。人間達に生殖の方法を教え、生まれてくる女達に分娩を教え、気力を失いつつある人間達に食物を、衣服を自ら調達する事を教え----解決されるべき問題は山のようにあった。だがそれは既に虚しい繰り返しではない、一歩一歩確実に前へ進んで行ける、嬉しい苦労となるはずだった。その苦労が一つ実るたびに、タワーは一つづつ灯火を消して行けるはずだ。最後の明りが消え、遂にその扉が閉ざされた時、フェンスも同時に姿を消すだろう。タワーは消えねばならないのだ。あれはもう過去の、アリスの遺産だ。今の彼等の力では修復も、十分な維持も出来ない、壊れつつある塔だ。人間が科学を捨てないにせよ、これから彼等と共に行く科学は、もっと違ったもの----彼等が創り、育て、自らの力で守って行けるものでなくてはならなかった。

 アルネは微笑んだ。彼はタワーそのものだった。タワーが無くなるということは、彼も、アリス達も一緒に消えるということをも意味していた。空しい過去の幻が彼の夜毎の眠りを苦しめることはもうないだろう。その代わりに、彼は近しい未来を夢見て眠れるはずだった。人の未来、あるいは自分自身の、目覚めのない眠りを。
「アルネ……アルネったら」
 イムナに腕を捕まれて、彼はやっと振り返った。
「作業が終わったって……聞こえてる?」
「ああ……ご免。ぼーっとしてた」
「ったく、ご老体は困るよな。しっかりしてくれよォ。まだ色々これからなんだぜ」
「全くだ」
 アルネは笑った。本当に自分は----随分と老人らしくなってしまったようで、いつまでも夢想から抜け出せずにいた事がおかしかった。まだボケるには早いぞ、しっかりしろ、と彼は自身に言い聞かせた。まだ女が生まれると決まった訳でもないのに! だがこの確かな予感は一体何なのだろうか?
 何れにせよ、イムナの言う通り、全てはこれからだった。ここで終わったわけではない。ここから始まるのだ。
「積み込みも終わった。急いで帰るぞ」
 アドラムが呼ぶ。
「ああ、タワーへ」
 アルネは答えた。


 一度だけ、ボートの上から、彼は振り向いた。もう二度と見ることもないだろう可南の、その頂を。なぜだかいつもアルネは、リーガがそこにいるような気がしていた。その場所に、どんな神話をリーガが夢描いていたことか。あの空気の澄んだ頂に、今彼がいるとしたら----。若くして倒れたそのままの姿で、日々弓矢を持って獲物を追い、篝火を囲む雪原で酒に酔い、リーガが今もそこにいるとしたら----。
 再び甘美な夢想がアルネを捉え、今度のそれはなかなか彼の心を放そうとはしなかった。その顔をタワーへ向けてもなお、彼はいつまでも微笑み続けていた。
 そうして彼等は、去っていった。東へ。
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