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XXX.  宿命
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 そこには、庭があった。
 秋も盛りの昼下がり、銀木犀の香り立つ、その遠い庭で彼等は出会った。
 子猫だった。睨みあい、微笑み合い、語り合い、殺し合った。その全ては、あの白い庭から始まった。今はもう何処にもない、可北の庭。三弦のギターをもの憂げに爪弾いて、あの時歌を歌っていたのは、光杏だったか。
 そして、今----。


 頂に立ち、眼下に繰り広げられる死闘を、春水はもはや深い感慨もなく見下ろしていた。彼はただ待っていた。一体いつからそうしていたのか、もう彼には思い出せなくなっていた。あの可北の庭で、隠れ住んだ西の丘で、春水は生まれてこの方、ただ「彼」を待ち続けていたような気さえしていた。そしておそらくは、それはやはり殺し合うための出会いだった。始めから。
 この頂にやがて姿を現すのが彼であることを、春水は確信していた。剣は春水を、誰の手にも渡そうとはしないだろう。もはや誰をも、何をもかえりみず、彼はただひたすらに自分をめがけてこの頂へとやって来ることだろう。
 この場所は彼等にとって、遠すぎた。待ち続けた時間は、あまりに長すぎた。その無為な長さに、剣もまた十分に苛立っているはずだった。一体誰が、何のために決めたのかも解らぬその定めに一刻も早く終止符を打たねば、彼等は互いにもう何処へも行けなかったのだ。どうしても、この場所を通り抜けねばならなかった。どちらか一人が。その一人は、自分であるべきだった。それは自らが生き延びるための宿命であるはずなのだ。決して滅びるためではない。そうあらねばならなかった。岩の上から、ゆっくりと春水は立ち上がった。

 剣は腰から新たな細剣を抜いた。この時だけのために、それは血の一滴も浴びずに腰に蓄えてあった。だが西からの斜光を浴びて、その刃は既に血に塗れたかのようにギラギラと赤くきらめいた。
 今、この場所が、終着点。ふいにそんな、不吉な予言めいた言葉が剣の脳裏をよぎった。それは確かに不吉な言葉ではあったが、同時に彼に何らかの安堵をももたらした。やっと、たどり着いたのだ。この場所へ。

 春水の姿は----恐ろしいほどに変わっていなかった。いや、実際には変わっていた。彼は既に逞しい若猫だった。長身の剣よりその背はなおも僅かに高く、昔ひ弱に見えた体にも、今は若猫の強靭な筋肉をスラリと纏っている。だが、その緑宝玉の瞳は、剣の記憶に強くこびり着いたままの氷の輝きをたたえ、そして体にまとわりつく黄金のオーラ----。相変わらずその姿は、風景からやるせなく浮いて見えるのだった。地上に身の置き所なく、まるで神話の生き物のように、別世界の光をまき散らしているのだった。一体幾度、剣はその姿を夢に見たことだろう。夢の中で繰り返し繰り返し、剣はその黄金のオーラを容赦無く切り刻み、あるいはその冷酷な微笑みの元に再び胸を貫かれ、あの再会の時から、二人はもうずっと戦い続けて来たのであった。
「……簓は、何処だ」
 春水は、それには答えなかった。ゆっくりと、その緑の帯から細剣を引き抜いた。長い黄緑の上衣が、頂の風にはためいた。打ちかかったのは、今度は春水の方だった。今度こそ、どちらかが確実にその死を迎えるまで、宿命の糸をやっと断ち切るその時まで、この戦いは決して終わらないのだ。


 黒葉に弔いの言葉をかけてやる余裕はなかった。頂へと走り去る剣の背を遠く目で捉え、日刺は再び大剣を構え直した。光の残党共に族長の邪魔をさせるつもりは毛頭なかった。数の差は相変わらず圧倒的だ。赤の若者が横で倒れる。下の広場から、金猫が、わらわらと登ってくる。彼は舌打ちをした。
 だがその時日刺の目に、可南猫を引き連れて駆け上がってくる黒毛猫の姿が見えた。舞うような細剣の動きで金種達をけちらし、彼と背中を合わせる。眉を上げ、日刺はニヤリと笑った。
「……藍高、ここを、くい止めるぜっ!」
「剣は」
「上だ」
「……よしっ!」
 藍高に続き、生き残りの可南猫達が続々と駆け寄ってくるのが見える。どうやらここが、彼等にとっても最後の決戦の場となりそうだった。


 細剣はぶつかっては離れ、火花を散らし、恐ろしい程の冷静さで彼等は切り結んだ。全身を刃のように研ぎ澄ませ、相手を見つめ、動きを読み、切り込み、防ぎ、再び切り込み、既に頂の風景は消え失せ、二人は深淵に浮かび、ただ互いの金と銀のオーラを目指し、その刃を繰り出すのみ。
 長い時が経ったにも関わらず、彼等は互いにまだ無傷だった。おそらく相手の体に届く始めの太刀が勝負を決める予感があった。それは端から見ればまるで模範試合でも演ずるかのような戦いであった。呼吸に、動きに、ただ一つでも無駄があれば、それを見逃す相手ではない。剣が肩に切り込むのを、春水が払う。返した春水の太刀を、後ろにとびすさって剣がかわす。
 やがて二つの鍔ががっちりと合った。渾身の力をこめて、だが互いにその先に動けない。石になったように、二人は力を競って凍り付いた。かつてないほどに近くその顔を寄せ、瞳を深く覗き合い、ほんの一時、稲妻のように、彼等はその心を分け合った。僅かな悔恨、哀惜と----得体の知れぬ、満足感。愛しさに似たもの。この時間が一刻も早く終わることを、また永遠に終わらぬ事を、祈るような心。

 だが次第に----剣の力が相手のそれを圧し始めた。氷は一瞬にして溶け、僅かに震える刃が、まだ力を競いながらも、春水の体に近付き始める。あと一押しで、春水の喉を切り裂く。剣は大声を上げ、残った力の全てを振り絞って、細剣を前に突き出した。
 が、勝利を焦る剣の細剣を、春水はその刃を素早く下に滑らせ、肩先で避けた。剣の切っ先は春水の肩をかすめ、服を裂いて前に踊り、思わず剣はつんのめった。体勢を崩した剣に、春水の振り向きざまの一突きが迫る。剣は地面を転がった。次々と襲いかかる細剣をただ避けることしか出来ない。春水の刃が正確に彼の行方を阻む。鋭い一突きを中途半端に受けとめた剣の細剣が、ついに高く宙に舞った。

 微笑みが、春水の白い顔を、僅かに掠めたかと見えた。見覚えのある氷の微笑----再びその太刀が自分の命を絶つのだろうか? 再び自分は負けるのだろうか?
 何を考える間もなく、地面を蹴って剣は飛んだ。脇腹に熱い痛みが走り、だがそれと同時に指先に細剣が振れ、それがいつしかしっかりと手の中にある。狙いも定めずに、それをただ上へ突き上げた。
 背を反らしてかわそうとした春水の、喉の横から、頂に血しぶきが舞った。剣は迷わなかった。返す刀を思いきり、胸に突き立てる。確かな手応えが突然の勝負の終わりを告げる。三度目の太刀は、もう必要無かった。細剣を引き抜こうとせず、剣はそこから手を離した。


 すぐには----春水の命は尽きなかった。深く刺さった細剣を何とか胸から抜き取ろうと、僅かにもがく。失われかけた呼吸を取り戻そうと、喉が喘ぐ。剣はゆっくりと立ち上がり、再び倒れた。感じる間の無かった鈍痛が、今更のように体を襲う。やっと上体だけを起こし、彼は血に染まった金色の頭をじっと見下ろした。勝利の歓喜は、まだ襲って来ない。失血の為だけではない強い脱力感が体を捉え----それはまるで彼自身が死んで行く感覚にも似ていた。なにか深い、喪失感のようなもの。

 うつ伏せに倒れた春水の頭が僅かに傾き、斜めに剣を見上げた。ゆっくりと、その唇が動く。
「……バカバカしい……」
 低く、吐き捨てるように、彼は呟いた。喉に流れる血にむせて、弱々しくせき込む。
「……こんな事の為に……」
 苦痛か、自嘲か、春水は顔を歪めた。そして再び目を上げ、剣を見上げる。大きく開かれたその瞳は、まるで死んで行く猫とは思えぬ程に、澄み切った光をたたえている。剣はぼんやりと、うっとりと、それに見とれた。緑の、宝玉。
 ふいに、春水の顔に、光が射した----と、見えた。彼の頬に、唐突な微笑みが浮いた。それは失われたあの頃の、可北にいた少年猫の、優しい笑み。陶器細工のような、女猫のような美しさを、それは彼の青白い顔に一瞬蘇らせた。

 急激な息苦しさに襲われ、剣は喘いだ。春水の微笑みはなぜか、胸苦しいほどの郷愁を彼の内に呼び起こしたのだ。初めて言葉を交わした、あの可北の庭。輝く黄金の髪と、その緑の瞳。二人の周りには、銀木犀が狂おしいほどに香っていた。その花を、簓のために持ち帰ったのだった。あの、遠い、庭。
「……剣……」
 その後に何を言おうとしたものであったか、だが春水はふう、と溜息をつき、そして瞳を閉じた。その姿が、顔が蒼ざめ、やがて堅く、冷たくなって行くのを、剣はただじっと見守っていた。光が、消えて行く。

 よろよろと、剣は立ち上がった。
 叫びが----強い眩暈と共に----彼の胸を貫いた。
 帰りたい。その声は、必死に叫んでいた。帰りたい。何処へ? あの、庭へ。
 花々の咲き乱れる、あるいは冬の初めての雪の降る、優しい人々が自分を待つ、あの、美しい庭へ。
 それは、自分の声なのだろうか? 春水の? それとも、兄の。黒葉の。息子の。羅猛の。父の。母の----。
 『帰りたい……』
 狂おしいその声が、平原を埋め尽くしていた。そう叫びながら、おそらくは誰もが生まれて来た。帰りたい、あの、美しい庭に。花々の香りの中で目を閉じれば、あらゆるうつくしいものが既に自分の周りにある。終わらない歌、消えることのない花火のきらめき、はかなさ故にあるのではない永遠のうつくしさが、強く、確かに存在する場所。持続する一瞬。無数の光が消え去った先で遂に結晶した幸福。満たされた憧憬のもたらす永遠の幸。
 『帰りたい……』
 ぐるぐると、風景が彼の周りを回り始めた。再び崩れ落ちそうになった体を必死で支え、剣は強く頭を振った。足下に転がった春水の細剣を拾い上げると、彼は踵を返し、丘を下る道を一心に走り始めた。体を引き裂く苦痛も今は忘れていた。


 土手から見下ろした狭い平地は、血と叫びに埋め尽くされていた。おそらくは生き残りの猫達が全てそこに集まり、最後の殺し合いを演じていたのであろう。屍が屍に重なり、地を被い、その中で彼等は鈍くうごめいていた。剣は目を閉じ、再び開いた。

「……止めろーーっ……!」
 怒号と共に、彼は手の中の細剣を振り上げ、力の限りに投げ下ろした。大きく弧を描き、それは下の地面に深く突き刺さった。
 平地の動きが止まった。それほどに剣の声は鋭く、そして揺れる細剣の柄に輝く緑の宝玉が、頂で何が起こったかを如実に物語っていた。
「……春水は、殺したっ! もう、戦は終わった……もう、沢山だっ……!」
 刃を合わせたまま、あるいは太刀を宙に振り上げたまま、今や身じろぎもせず、全ての猫達がじっと剣を見上げていた。
「春草の直系は、絶えたっ! 可南に忠誠を誓うなら、お前達に可北はやる。……そこで相変わらず下らねェその血にこだわって住むなり、勝手にすればいいっ。だが、あくまで刃向かうつもりなら、ここがお前等の墓場だっ! さあ、どうする、ドッチを選ぶんだよ。まだ殺し合いを続けるか……? 選べっ……!」

 彼等は顔を見合わせ----長い沈黙が続き、やがて一人の金種が大剣を地面に捨てた。残りの者も、続々とそれに従った。光の男達は最後まで迷っていたが----やがて細剣を取り落とした。日刺と、藍高が顔を見合わせて、武器を腰に納めた。可南の猫達も、渋々の身ぶりをする者もいたが、それに従った。族長の言葉ではあったし、それに今の剣の、まさに刃のような迫力に、逆らおうとするものはいなかった。

 剣はゆっくりと平地を見下ろし、そこに飛び降りた。脇腹の血は、まだ地にしたたり続けている。若干の安堵のためか膝が崩れそうになり、その腕を日刺が支えた。
「……剣……ヤッたんだな……」
「ああ……」
 油断すれば、気を失ってしまいそうだった。この場で彼が倒れれば、中断された戦いが再び始まるだろう。彼はゆっくりと日刺の腕を押し返した。
「剣……どうしてだよ、ここまで来て……アイツらこのまま……」
「もう沢山だ、と言ったろ」
 剣は低く答えた。
「春草の直系は、絶えた。それで、十分だ」
「剣……」
 春水の細剣に再び歩み寄ると、剣はそれを地面から引き抜き、呆然と立ちすくんでいたセルグの喉元に突きつけた。
「……簓は……何処だ」
 セルグは息を呑んだ。
 ふいに、正気を取り戻したかのように、一人の猫が動いた。落とした細剣を素早く拾い上げ、飛ぶように中腹への道を走り始める。光蟻だ。剣は振り向き、その後を追い、駆けた。


 なぜ彼等が簓を必要としたのか、今なら薄々解る気がした。春水には----おそらく子供が出来なかったのだろう。あるいは産まれても、死んでしまったのかもしれない。厳しい平原の暮らしでは、元々弱い春草の赤子が生き延びることは尚更困難であっただろうから。だから彼等は可南を襲撃する危険を冒しても、どうしても簓が欲しかったのだ。例え緑の目をしていなくとも、あれはおそらくは唯一の、春草直系の子供なのだ。そしてそれ故に、彼等は簓を形ばかりの人質としても使えなかった。その子猫は、もし春水がこの戦で倒れた後、春草復興の最後の命綱となるはずであったから。

 剣は、ただ走った。日刺が後を追ってくる。今日はもう一日、走り続けている気がしていた。足が血で滑り、苦痛が全身を百の刃のように貫いた。だが彼は走り続けた。宙を飛ぶように。その速さに日刺でさえも追いつけない。光蟻は岩を伝い、茂みを抜けて中腹へと下って行く。やがて深い茂みに周到に隠された小さな小屋に、光蟻の姿は消えた。剣がそこにたどり着くより早く、反対側の窓から飛び出す。小脇に、小さな金髪の猫を抱えている。----動いている。生きて、いるのだ。幼い息子が恐怖に泣き叫ぶ声が、風に乗って剣にも届く。

「……簓ーーっ……!」
 剣が叫ぶ。簓は僅かに顔を上げ、自分を救おうと必死に駆けてくる父親の姿を認めた。言葉も無く、彼はその小さな手を父の方へ延ばした。
「簓あ……っ!」

 剣は走る。逃げ道を失った光蟻は、止むを得ず崖際の道を伝い始めた。頼りなく細いその道は、とても二人が並んで通れる幅ではない。剣を先頭に、少し離れて日刺が後を追う。だがやがて道は崖の中に途切れ、光蟻は剣を振り向いた。簓を手から下ろし、背中に庇うように剣と向き合う。

「簓を……渡せ。俺の、息子だっ!」
 答えようとせず、光蟻は細剣を振り上げた。足場の悪い崖の細道だ。身軽な猫ではあっても、落ちて助かる高さでもない。おまけに光蟻の後ろには、簓が必死で岩にしがみついているのが見える。光蟻の攻撃を、剣はやっとのことで受けとめていた。
「光蟻っ……今更一人で……どうする気だっ……」
 だが既にこの光猫は----命をかけて護り続けて来た当主を殺され、半分正気を失っていたものだろうか。無言のまま、無茶苦茶に細剣を振り回していた。日刺も、道の細さに彼等の側に寄ることが出来ない。これ以上近付いては逆に剣の邪魔をすることにもなりかねなず、身を乗り出し、息を詰めて、この最後の勝負の行方を見守っていた。

 そう長い緊張ではなかった。いかに負傷してはいても、錯乱した光蟻は所詮剣の敵ではない。深く喉を突かれ、光蟻は声もなく崖を滑った。ほっと、日刺が肩の緊張を解く。簓が立ち上がり、父に駆け寄った。剣も、細剣を取り落とし、手を差し延べた。

 だが最後の瞬間----共に連れて行こうとしたものか、それとも錯乱の中で守ろうとしたものか、光蟻の手が弱々しく簓の足を払った。父に向かって延ばしたままの小さな手が、空を切る。その体が、ゆっくりと宙に浮く。紫の瞳が、大きく見開かれた。
「……お父さん……っ……!」
 剣は、もう迷わなかった。この手は、届かせる。絶対に。
 必死で延ばした指が、簓のそれに確かに触れた。幼い体を手繰り寄せ、しっかりと胸に捉える。だがそのまま足は崖を離れ----そして剣は落ちていった。堅く、腕の中に、彼の息子を抱きしめたまま。日刺の叫びも、その腕も、彼には届かなかった。
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