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XXXI.  選択
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 ぐるぐると、風景が廻っていた。

 崖上の景色が、日刺の驚愕した表情が、険しい岩壁が、すがり付いて来る息子の顔が、下を落ちて行く猫の屍が、剣の周りを回っていた。
 ぐるぐると、黄金の猫の閉じた瞳が、狂ったように咲き誇る白い花が、黒い瞳をした人間の微笑みが----。あれは可南を去った金目の猫の背中。見送った男の最後の笑み。父の、母の、焔の顔。ぐるぐると、速度を増して、止まらない弧を描き、風景は重なり合い空となり地となり風となり、剣を揺らし、持ち上げ、突き落とし、やがて全てが溶け合い真っ白な雪が降りしきり、白い闇が世界を覆い----。
 そして、止まった。


 うたた寝をしていたらしかった。
「剣、ねえ、剣ったら」
「………」
 簓が不思議そうに顔を覗き込んでいる。剣は目を開き、もう一度閉じ、再び開いた。
「どうしたの? 剣」
「………」
「どうしたのってば……妙な声あげて。寝ぼけたの?」
「……簓……」
 剣は身体を起こし、頭を振った。

 巫子村の薄暗い部屋の中には、冬の陽射しが厚い雲をぬって名残のひとひらを投げていた。もうすぐ女たちが明りを持ってくる時刻だろう。ざわざわと夕餉の支度をする音が聞こえてくる。
 何だか泣きたいような気持ちで、剣は兄の顔をじっと見つめた。
「俺……良かった、簓、俺、変な夢見てたんだ……」
 簓は笑って窓の外の降り始めた雪に手を伸ばした。
「変な剣。ねえ、見て。キレイだよ……」
「……うん……」
「今年初めての、雪だね……」

 剣は立ち上がり、兄の後ろに座った。巫子村の小さな中庭は、可北のそれのように充分に手入れをされているとは言えなかったが、灰色の泉も、最後の枯れ葉を残した木々も、墨で描かれた絵のように美しかった。可南の冬はあっと言う間に訪れる。もうすぐこの庭も真っ白に染まるだろう。吹雪の夜を重ね、巫子村は眠るように雪に埋もれるだろう。

「ねえ、剣……」
 後ろを向いたまま簓は言った。
「どこへ、行くの?」
「……簓?」
 雪の舞う灰色の空を簓はただじっと見上げていた。
「僕たちはどこへ行くんだろう? 僕はね、ずっと考えていた。何で猫の背中に未来が見えるんだろう。産まれた時から、なんでそれは変わらないんだろう。変えられないんだろう。こうやって、巫子村には毎年雪が落ちてくる。そうすると、ああ、また季節は繰り返す、可南は繰り返しの中にいるって、良く解る。猫が、秋に生まれてくる。冬に死んで行く。雪が降る。そしてまた春が来る。僕たちは……どこにも行けない。また戻ってくる」
「………」
「僕らはまた戻ってくる。同じ冬の中に。春の中に。同じ戦の中に。生まれて、死ぬ。どこにも行けないまま、ぐるぐる回ってる。小さな輪が、一日を繰り返して一つ月になるみたいに、たくさん重なって大きな輪になる。それがまた重なって、もっと大きな輪が出来て、ずっと回っているのが見える。僕たちはその中に、閉じ込められている」
「………」
「君にも、解ってる。何かに動かされていると。得体の知れない、どこかへ行かなきゃいけない、そんな気持ち。それは、輪の力。回る力。繰り返しの力。僕らを閉じ込める力」

 剣は黙って兄の後ろ姿を見つめていた。雪が音もなく、簓の肩に、髪に落ちる。
 そっと簓は自分の髪をはらった。
「剣はそこから出たかった?」
 簓は、剣を振り返った。その腕に、小さな子猫を抱いている。金色の髪と、紫の目をした子猫。
「簓、俺は……」
 泣きそうな声で、剣は言った。
「俺はただ、幸福に、なりたかっただけなんだ」
 簓は再び静かに微笑んだ。
「幸福って、何?」
「………」
「誰もが、笑っていること? 君も、焔も、黒矢も藍高も黒葉も春水も……みんな? でもそんなの無理だよね。剣。無理なんだ。君ももう解ってる。輪の中で、君達はどこにも行けず、焦がれれば焦がれるほど幸福には遠く、仕方ないから君達は自分に言い聞かせる。俺はこれが欲しかったんだ、あの、てっぺんにある大きなグミの実じゃない、この小さな青臭いやつが。君達は無理やり笑い、それを幸と呼ぼうとする。そうしなければ、自分の憧れに焼き尽くされて、生きて行くことが出来なくなってしまうから」
「………」
「心と適当に折り合って、君達は死んで行く。やれやれ、俺はまあ良くやったよ……なんとか、やって来たじゃないか。これで良かったんだ。これでやっと眠れる……待ちくたびれたよ」
 剣はみじろぎし、あえぐように口を開き、僅かに首を振って、また口を閉じた。

 簓は顔を上げ、窓の外へ手を差し伸べた。
「ここは静かでしょ……この庭は、止まってるから。輪から外れて、なにもない場所だから。喜びも、苦しみも、憧れもない。幸福もないけれど不幸もない。求める物が無いから、追いかける物がないから、夢も無く眠れる場所」
 雪のひとひらが、彼の手に落ちて、消えた。
「剣、……疲れたでしょ?」
 兄は優しく言った。
「君は、どこへ、行くの? 剣。もう、帰ってくる? 僕の所へ。この庭に帰ってくる? 君は随分頑張ったよね。焔を助けて、可南を助けて、君は頑張ったよね。もう、帰ってくる? この、巫子村の、雪の庭へ」

 懐かしい兄の声に、剣はうっとりと聞きほれていた。追憶が、激しくその体を揺さぶった。白い清らかな雪が、疲れた体を、心を、優しく慰める、今再び近しくある、清らかな庭。
「もう何も追わないでいい場所。静かな泉と雪の中で、眠りたい? 君を走らせて止まない輪の力からもう解放されて、かなわなかった憧れの痛みを捨てて、その胸の火を吹き消して……帰ってくる? 剣」
 剣は、簓を見つめた。もう彼よりも随分幼くなってしまった兄の、変わらぬ優しい微笑み。こらえようもなく、いつしか彼は涙を流していた。

 小さな子猫が、ふいに兄の膝から飛び出した。そのまま剣の足元に駆け寄り、膝によじ登り、小さな手で服をしっかと掴む。
 ゆっくりと、剣は息子の顔を見下ろした。
「剣……」
 紫の瞳を不安そうに大きく見開いて、簓はじっと父の顔を見上げていた。
「剣……でもね、でもね……」
「簓……」
「剣……でもね、僕は……僕はね……」

 ほろほろと、彼の息子は涙を流した。流すまま、ぎゅっと剣の胸にしがみつく。
 しんしんと雪の振る灰色の巫子村は、既に色も、音も無く、ただ静寂に閉ざされていた。
 息子の髪を、そっと、剣は撫でた。哀しい体温が、手からほんのりと伝わってくる。
「簓……」
 やがて彼は言った。
「簓、俺には……俺はそんな風に、考えられない。そんなのは……便利すぎる」
「便利……?」
 じっと剣の顔を見たまま、兄は少しだけ、首をかしげた。
「だって、そうだろう……繰り返しで、決まってるなんて、そんなの……。だったら、狩りをして矢をはなつ時に、こう思うんだ。この矢が当たるか当たんないかはもう決まってるから、俺がガンバる必要はない。女を好きになったら、思うんだ。愛したり、愛されたり、もう決まってるんだから仕方ない。どうせじたばたしたって、俺には何も出来ない。そんなの便利すぎる。ここは輪の中だから仕方ないって。出られないって。そんな、便利な話があるか。何をしても無駄、それなら何もしないでもすむ。自分のせいじゃない、これは元から決まってた、って笑えば済む」
「………」
「輪が……もし、この世を支配してるような輪があるのなら、じゃあなんで輪が回るんだ。誰かが廻してるからじゃないのか。水車小屋の車だって、風車だって、風や、水がなきゃ動かない。俺達が、輪に廻されてるんじゃない。俺達が、輪を廻してる。輪の外に飛び出そうとして……走ってる奴等がいて、輪が回るんじゃないのか。それで、がんばって、ちゃんとブチ破るんだ。誰かが、それを」

 兄が、ほんのりと微笑んだように見えた。
「でもね剣、輪を破って……でもそんな小さな輪は、すぐに他の輪に飲み込まれる。より大きな輪に。抗ったつもりで、結局元に戻る。走って走って……やっぱり無駄で、繰り返したら、君はどうするの? 君は結局春草を可北に戻したね。まだ、諦めないことにしたの? でもまた同じ事が繰り返されたら、君はどうするの? そうなるって事が、君には解っているんじゃないの? 君は、がんばったよね剣。でもそれで君は、幸福になれたの? 少しでも、それに近づくことが出来たの?」
「そンなの……やってみなきゃ、解ンないだろォ!」
 剣は叫んだ。
「俺は……俺はまだ解んないけど、どうなるか、解らないけど、でも同じ事だなんて思いたくない。何とかやってみせる。絶対に。諦めたりしない。俺がダメだって、そしたら後の誰かがやればいい。燐や、恍や、誰かが、きっと……」

 兄の周りに、銀色の靄がかかっている。ふいに、その身体が透き通りはじめたようであった。
 それは既にもう兄ではないのかもしれなかった。巫子を動かしてきた何か。平原を漂い、気まぐれな傍観者のように彼等を見守り続ける何か。だがそれでも、薄れ行く姿を剣は惜しんだ。心から。絞り出すように、剣は続けた。
「何かに動かされてるって……思ったことはあるさ。でもそれは……違う、俺が何か、心の中の……火みたいなヤツに動かされて走る、それが輪を廻すんだ。俺がシアワセになりたいって思って、それが輪を廻すんだ。輪に廻されてるんじゃない。みんなが諦めて、止まっちゃったら、もう何もかも、終わっちゃうじゃないか。そんなの……。簓、俺は諦めない。絶対に、諦めたりしない」
 嬉しそうに、兄が笑った。


 本当の幸などと言うものは、おそらくどこにもありはしないのだ。ふいに、剣は思った。そんなことは、思い返せばもうとっくに解っていた。でも、欲しいのだ。それも今すぐに。無茶を承知で、泣き喚く赤子のような心で。
 それならば、走るのを止める訳にはいかなかった。自らの憧れの行き着く先が一体どこにあるのかさえ、解りはしないにしても。
 全ての幸は、ただ憧れそのものの----中にあった。その中にしか無かった。それは望む者の胸にだけ、ひっそりと咲く白い花のようなもので----その憧憬そのものが、遥かな庭へと辿り着く唯一の道しるべ、誰かが生の祝福として与えてくれた幸福への道標。それを探して、生きよ。必ずあるその庭へ、帰り着きなさい----。
 膝の上の息子を力一杯抱き締め、消え行く兄の姿に向かって、いつしか、剣は呟き続けていた。大丈夫、俺は大丈夫だよ。大丈夫。俺は強いから。大丈夫だよ----。


 ぐるぐると、輪が廻り始めた。
 ぐるぐると、光となり、闇となり、それは、神話を語って見つめた暖炉の炎。一度覗いた死の深淵。自分が生まれた朝の、知らないはずの始めの光。死の庭、生の庭、近い庭、遠い庭、篝火が炎を吹き上げ、平原を焼きつくす。遥かな叫び声----誰もが叫び続けていた。その声はただ自らの胸にしか届かず、誰もが自分一人だけの平原を孤独にさまよっているのだった。兄の姿が遠ざかる。可南は祭り、嬌声と楽の音。大剣のぶつかる音。倒れ伏す猫、腐り果てた屍の山、血と、叫び。


     ああ、なつかしい恋人よ!
     花咲くオレンジの木かげ!


 悲鳴のように歌が響き、可北の庭は秋の盛り、金髪の少年猫が銀木犀の茂みにもたれ、秋の眠気に静かに目を閉じるのが見えた。
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