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XXXII.  平原
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「それでね、剣がね。僕の手を掴んで、一緒に飛び降りたんだぜ。びっくりしたよォ。無茶だよなあ、族長のクセにさ」
「ふーん、カッコいいじゃん……」
 兄と並べて馬を歩ませながら、燐は感心して呟いた。その古い冒険談を、燐はもう兄から何度となく聞いていたのだが----だが相変わらず二人は、その話をするのを、そして聞くのを好んだ。
「でもさあ、ホント良く助かったよナァ。一体どうやったのさ、剣」
「さあなあ……」
 剣は微笑んだ。良く助かったものだ、と自分でも思っていた。簓の体を胸に抱き留めたあとは、崖下の高い木に何度かぶつかった記憶しか無く、おそらくは厚く茂った木の枝が彼等の命をかろうじて救ったと考えられていた。族長親子の死体を探しに来た側近の二人は、崖下に、かすり傷のみで気を失っている彼等を発見し、狂喜乱舞した。日刺によると藍高がそこで剣にすがり、男泣きに泣いたことになっていたが、藍の長はフンと鼻で笑って、それは日刺のやった事だと否定していた。

「まあ多分、運が良かったってダケのコトだろ」
「ふうん」
 燐は幾分不満そうに言った。彼は今まで父に命を救ってもらうような目にあったことも、ましてや「誘拐」されて命の危険にさらされる、などという冒険を味わったこともなかったので、心密かに兄を羨ましく思っていた。いつかまた「春草」が、今度は彼を誘拐してはくれないだろうか? そんな事になったら、随分と面白いに違いない。
「それが俺でもサァ、剣は一緒に飛び降りた?」
 声に若干悔しそうな調子が交ざる。剣は笑った。
「……当たり前だろうが、バカだなあ……」
 やっと安心して、燐は二つ上の兄に再び微笑みかけた。族長の五人の子供達の中でも、この二人は特に仲が良く、体の弱い兄を心配し、燐は暇を見付けては巫子の村に入り浸っていた。


 馬達は、気持ち良さそうに緩い傾斜を登って行く。秋祭が可北で行われるというのは、今までに無かった事だ。慣れぬ祭りの支度に、可北も、可南もまた大わらわだった。頂には可北からもう何度も使者が訪れ、打ち合わせに余念がなかった。今日は族長自ら可北に最期の下見に行く最中だった。
 相変わらず花と果物の実りに彩られた美しい春草の部洛を、彼等は眩しげに見やった。金種達は、もう直系の血がなくなったにも関わらず、なぜか相変わらず自ら春草を名乗っていた。恐らくそれは生き残った光や春草の女共の強い主張によるものなのだろうが、そうだとしたら、金種達もやっと女の扱いというものが解ってきたとみえる。剣は密かにほくそ笑んだ。

 当主家の前で、今は長として春草を仕切るアロンが剣を出迎えた。
「ようこそ、族長」
 いささか堅い喋り口は相変わらず春草のものだ。剣は馬を下りた。珍しそうに辺りを見渡しながら、燐は簓が地面に下りるのに手を貸している。巫子の勤めを忙しくこなす長男とは異なり、彼は十歳になって、今日初めてこの部洛を訪れたのだ。
「……ナンか、すげーな」
 アロンの脇には、彼の息子がニコニコと微笑んでいる。目が合い、燐は、ふん、と顔を反らした。祭りでしか顔を合わせたことがないこの緑の目の少年猫が、彼は何とはなく苦手だった。
「どうぞ、中庭の方へ。お茶の支度をさせてありますから」
 アロンが先に立って歩き出す。銀木犀の群落が、彼等を華やかに、香り高く取りまいていた。荒れ果てた可北の面影はもう何処にもない。緑の庭師達は、その職人としての誇りにかけて、当主家の庭を完全に復活させたのだ。剣は黙って後に続き、緑石の椅子に腰をかけた。

 この庭を訪れたのは本当に久しぶりだった。金種達がここに来てから、もう七年にもなるだろうか。戦の直後にこそ小さな諍いが絶えなかったが、七年の年月は短い様で長い。金種も、そして可南猫も、可北に金の猫達が集うことにもう慣れて来ていた。
 剣自身にも、戦いは既に過去であった。死者は死者であり、過去は、過去だ。追憶はたまの安らぎには便利だが、厳しい丘陵の四季を生き抜いて行く現実には何の役にもたたない。忙しく族長の勤めを果たしながら、もう彼も長いこと昔を思い出すことがなくなっていた。あれから随分の年月が経ったとは言え、剣はこの秋にやっと二十七を迎える、今だ若き族長だったのだ。追憶に浸るには、まだ早すぎた。だが今日、この庭の佇まいが、彼に久しぶりの物思いにふける機会を与えたようだった。ふと、彼は前族長に思いを馳せた。羅猛が----彼が頂を、可南を去ったのは、今の自分よりまだ若い頃のことだった。

「しばらく、お待ち下さい。セルグを呼びますので」
 言って、アロンは息子と共に姿を消した。可北の風景に圧倒されたのか意気消沈がちであった燐は、だが当主親子が去るとすぐに元気を取り戻した。歓声を上げ、簓を誘って銀木犀の茂みに潜り込む。あまり遠くへ行くなよ、と声をかけ、剣も用意された茶には手をつけず、ゆっくりと立ち上がると小道を歩き始めた。

 こうして見ると、ここはやはり随分と美しい庭だったのだ。あらためて、剣は思った。銀木犀の大群は、相変わらずの、眩暈を伴うほどの圧倒的な香りを振りまき、それと競うように首をもたげる白曼珠沙華やクリス。石柱から垂れ下がる御柳。焼け残った柱を巧みに利用し再建された東屋の脇を、剣は花に埋もれてぶらぶらと歩いて行った。

 小さな泉の前で、彼は立ち止まった。渡りの途中であろう白い鳥の群が、女達の用意した餌を目当てに、水草の上に群れている。華奢な噴水が水を吹き上げ、水浴びする彼等を喜ばせていた。色とりどりの陶磁のかけらをはめ込んだ、いかにも春草らしい凝った作りの小道を辿り、彼は泉の回りをぐるっと一周歩いた。そしてふいに、足を止めた。
 何らかの既視感が----強く彼の心を捉えたのだ。それは何処かで----知っている風景だった。目を細めて、彼はじっと泉を見つめた。それは何だったのだろう? 誰かが、彼に話して聞かせた事が、あったような----。一体いつ、誰が?

 だが、剣がこの庭を見知っているのは当然の事であった。族長になる前も後も、彼は何度でもこの庭を訪れた事があり、またこの庭は幾度もの戦乱を乗り越え、常に昔通りの姿に再建されて来たのであったから。
 ふいに自分の心を揺らした強い感情を、剣は自らの追憶、感傷によるものと理解して薄く笑った。そして再び小道を歩き始めた。
 秋の盛りは----その庭を本当に美しく彩っていたのだ。まるでこの世のものとも思われぬほどに。それが女々しい感傷によるものだとしても、剣は今の不思議な気持ちの揺れを、もう少しだけ味わっていたかった。それは優しく、懐かしく、彼の心を満たした。微笑んで、彼は小道を辿って行った。まだ訪れたことの無かったその庭の、奥へ。なお、奥へ。やがて咲き誇る銀木犀の影に、その姿は消えた。散歩に飽きた息子達が剣の名を呼んだが、何処まで歩いていったのか、答える声はなかった。白い花びらにまみれて、彼等は見失った父の名をいつまでも呼び続けていた。


 そこには、庭があった。
「その話は、もういいわ」
 ヴィーダが無碍に言い放った。
 苦笑して、アルネは古びた本を脇に置いた。足下に黒い髪の娘達が二人まとわり付いている。
「それより、お父さんのお話がいい。ねえお父さんの話をして」
 アルネは笑った。
「もう、何十回も聞いただろ」
「いいの。聞きたいの。リーガの話をして」
「いいよ……」
 優しくアルネは微笑んだ。
「君たちのお父さんは……リーガは、山の中で生まれた」
「平原、ね」
 ディーガが自慢げに言う。
「まあね、平原のはじっこ。それで、僕たちを守る為に、彼はここに来た。だから彼は死ぬことが出来なかった。僕たちを救うまでは」
「彼は『女』を見付けなければいけなかったのよ」
 ヴィーダが高らかに叫んだ。
「そして彼は見付けたのよ……それが私たちのお母さんなのよ……」
「そういうこと」
 アルネは微笑んだ。
「お父さんが矢に当たって平原で死んだ時、人間達は怒って猫の所へ攻め込んだの。でもそれは間違いで……再び平原に平和を取り戻すために、彼等が人間達に女のいる場所を教えてくれたんだよ」
「猫の神様は、つるぎ、と言うのよ」
 ディーガは秘密らしくアルネの耳元でささやいた。
「イムナが教えてくれたぜ」
「くれたぜ、じゃなくて、くれたわ」
 アルネは丁寧に彼女の言葉を直した。とうに忘れ去られた「女風」の口の聞き方を、壊れかけたデータバンクの隅から見つけ出し、P-Com.が全ての娘達に教え込もうとしていたが、まだ圧倒的に数の多い男達に影響されて、その言葉はすぐに乱れた。特にヴィレッジではそれがひどい、とイムナは頭を抱えていた。
「それにしても……」
 アルネは笑った。
「いつの間に剣が神様になっちゃったの? 彼は生身の、普通の猫だよ」
「尖った耳を持つ神様なのよ。アルネが良く言うじゃない」
 彼は困惑した顔をした。いささかロマンチックな話を、彼は娘達にしすぎているらしかった。まあ、無理もない。自分はもう充分に老人なのだ。いささか話が浪漫に走るのは勘弁してもらおう、と彼はほくそえんだ。
「いいなあ……アルネは神様と会ったのね」
 ヴィーダがうっとりと呟く。
「君のお父さんだって、会ったんだよ。彼は剣の一番の仲良しだったんだから。……神様じゃ、ないけどね」
 未練たらしく繰り返すアルネを、ヴィーダは完全に無視した。
「あたしも会いたいわ」
「そうだね……いつか、会えるかもしれないよ。この平原がもっと平和になって、人間がフェンスを必要としなくなり、外に出ていったその時にね」
「そうしたら、あたしが真っ先に神様と会うの。剣に会って、言うの。あたしがリーガの娘だって。そしたらきっと、彼はあたしを歓迎してくれて、猫の国の王女様にしてくれるかもしれないわ」
「その頃には、剣はきっとオジイサンになっちゃってるよ」
「あら、神様は歳をとらないのよ。黒い目と、黒い長髪の猫でしょう。尖った耳をしているの。会えば、きっとすぐにわかるわ。あたしは言うのよ。あたしはリーガの娘、ヴィーダ。あなたのオヨメサンになるために来たの」

 アルネは微笑んだ。昔、剣が人間世界に憧れてここに迷い込んだように、娘達は既に可南を神話として語っていた。いつか、今度は彼女が猫の山を訪れることがあるのかもしれない。今度は、その境を無くすために。西の丘の神話は、彼女にその力を与えるのかもしれなかった。

 神話を追って----剣がここを去って以来、リーガはフィールドに一人で出ることが多くなっていた。遥かなる西の丘に心を奪われ、その屍が数日後に発見された場所はもうクリークのすぐ側で、そんな所まで彼はさまよい歩いていたのだった。その彼の果てない憧憬が、この娘達にも引き継がれているのかもしれなかった。

「アルネ。アルネったら」
 ディーガが彼の髪を引っ張る。話の最中に彼がふいの夢想にひたるのは最近良くあることで、アルネは本当はオジイチャンなんだから我慢してあげなさい、と二人の娘は他のアリス達に言い含められていた。
「続きを話してよう」
「ああ……続きって……もう、終わりだよ」
 ぼんやりとアルネは言った。
「君たちのお母さんを見付けたリーガは、山に帰りました。それで、この話はおしまい」
「じゃあ、お父さんは今、どこにいるのかしら」
 ディーガが不審げに呟いた。
「さあ……それはね。僕も知りたいけど」
「バカねえ、二人とも知らないの。天国よ。あたしP-Com.で読んだわ。お父さんは天国にいるのよ」
 ヴェーダが得意そうに叫ぶ。
「天国?」
 ディーガが首をひねって呟く。
「天国って何? ねえ、アルネ、天国ってどんな所? どこにあるの?」
「リーガは天国になんかいないよ。きっと」
 アルネは笑った。
「リーガはね、そんな所に大人しくしていないと思うよ。多分彼はね、西の国にいる。それは、平原の西の果てにある豊かな丘で……深い深い森の中で、尖った耳と細い目を持つ生き物が弓矢を手に獲物を追い、春には愛し合い、冬には雪の上で篝火を囲んで歌い踊り……。そしてその傍らでは美しい女達が、繰り返し繰り返し、平原の物語を語り続けているんだよ……」
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