<平原-Side Story>
蜜の記憶
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もう夏も終わりだった。窓から思い切り良く流れ込んでくる湿った草の匂いに、懐かしく虫の声が混ざる。
藍高(アイコウ)は目を細めた。
そろそろ夕刻には涼しくなる。衣替えを急がせなければ。最近の可南(カナン)の平和に気持ちが緩んだのか、普段はまめまめしく動き回る藍(アイ)の家の女達も怠け気味だ。少しカツを入れないとな。若き藍族の長は心で呟いた。
弓の弦を張り直していた手を休め、藍高は立ち上がり、窓辺に寄った。改めて眺めると、森の緑にも疲れたような濃紺が混ざり、確かに秋はすぐそばに来ているのだと知れる。
猫達の住む山、可南の秋は忙しい。重く雪に閉ざされる冬を迎える前に、十分な食料の調達はもとより、冬衣装の支度、薪の蓄え、やらねばならぬ事は山ほどある。出来ることは今から始めても早すぎるということはない。まずは建物の補強からか----。
去年の冬は、補強を怠った為に雪に潰された小屋が二軒もあった。家畜の小屋を潰され、貴重な馬を亡くした者もあった。今年もそんな事を繰り返せば藍族の名折れとなる。それは長である自分の責任でもある。藍族の縄張りにある、いささか古びて来たと思われる建物を、彼は一つ一つ頭に浮かべてみた。
------李青の家畜小屋は危ないものだ。今年になって無理な増築をしているから----それから長家の食料庫。地下を掘ってから補強をしていない。藍目の小屋は、建ててどのくらいになるのだっけ? あれも随分古い。それから------
ふと、縄張りの外れにある、朽ちかけた小屋の姿が彼の脳裏を過ぎった。
そろそろあの小屋も取り壊す頃だ。
もう誰も住まなくなって----十年にもなるのだろうか。柱も腐って来ているだろう。夏には子猫が中で遊んでいると誰かが言っていたが、屋根でも落ちたら事だしな‥‥。
まだ早い夕闇に藍高は目を凝らした。長家の窓から縄張りの外れが見えようはずもなく、厚く葉の茂った森の奥で最後の夏蝉が頼りなく鳴いた。
唐松の枝が入り組んだ日陰を作る、昼も薄暗い斜面の一角にその小屋はあった。
初めて藍高がそこに立ち寄ったのは、まだ十三になったばかりの冬だったか。狩の帰り、雪道をつけながら馬を歩ませていた彼は、藪の下から声をかけられるまでその小屋の存在にすら気付いていなかった。
「大猟だね、藍高」
見下ろした笹藪の向こうに女猫が立っていた。
一瞬、彼女の名前が思い出せずに藍高は言葉につまった。確か祭りで顔を合わせたことはあったが‥‥。
彼の顔を見上げ、女は右頬にえくぼを寄せた。
「頑張るね。雪も厚いのに」
思い出した。菓蘭(カラン)、だ。青耳(アオミミ)の妻だ。このえくぼがどうのと、男共が言っていた事があった。
彼女の背後にある小屋に藍高は目をやった。この獣道は何度か通ったことがある筈だったが、唐松の森に溶け込むように朽ちかけた小屋に注意を払ったことはなかった。それでは、ここが青耳の住居なのか。
一方菓蘭は、藍高の馬の背をじっと眺めている。
「雷鳥だね。いいね。本当に大猟だ」
「‥‥一羽やろうか。沢山あるから」
白と黒の羽に血をにじませた雷鳥を一羽、鞍に結んだ綱をほどき、藍高は彼女の胸元へ投げた。
両手を広げてそれを受け止めると、菓蘭は再びえくぼを浮かべ、ふふ、と笑った。
「寄ってお行きよ、藍高」
扉を開き、ひらひらと手招きをして小屋の中へ消える。
藍高はためらったが、馬を下りた。噂にしか聞かなかったこの小屋の内部に好奇心もあった。
青耳、という名の小屋の持ち主は、青の名を持つ程だから、藍族の直系に近い血筋に違いないのだが、藍高が物心ついて以来ずっと、この不便な縄張りの端に、妻と二人ひっそりと隠れるように住んでいた。
青耳には、右の耳が無かった。狩で獣に襲われ、無くしたと言われていた。耳という名前を貰ったのに片耳を失うとは何とも皮肉なことで----猫は身体の一部を失った者を嫌う習性があり、それも戦でもなくたかが狩で、という負い目もあったのか、それ以来彼はその小屋に閉じこもったきり、ろくに狩にも出ず、生活の殆どを妻に頼って生きているという話だった。妻と子供を養うのを誇りとしている猫達がそれを快く思う筈もなく、青耳は耳を失った猫としてより、妻を養わぬ男として可南から蔑まれ、他の猫と付き合うこともなく、ろくに祭りにも顔を出さず、ただそこにいた。
古びた扉は、ギシギシと不満の意を露わにしながらも藍高を迎え入れた。それにしても表も中も、小屋は持ち主の気力の無さを如実に示すように荒れ果てて、きれい好きな藍族の、それも長家で暮らす藍高には、とてもここで生き物が生活しているとは思えなかった。たわんだ床や、雪に負けて曲がった窓覆いも、もう何年も手入れされた形跡は無く、朽ちて落ちた天井板も、腐るままに部屋のすみに乱暴に寄せてあった。かろうじて細い枝で窓枠が支えられているのは菓蘭の手によるものか、だがか弱い女の腕だけで小屋を維持する力仕事が全てまかなえる筈もなく、その心細い手当がかえってもの寂しく、小屋に廃墟の趣を添えているようでもあった。
「青耳、藍高が遊びに来てくれたよ」
奥の窓際に座り、一人将棋を指しながら酒を飲んでいた青耳は、横目で藍高を見ると、ああ、とくぐもった声を出し、あとは無言だった。祭りにも顔を出さない彼の顔を見るのはそれが初めてだった。なるほど噂通り右の耳がない。随分と痩せてくたびれた男だな、というぼんやりとした印象しかなかった。歳をとっているようにも見えるが、実際はまだ若いのかもしれない。延ばし放題の髭には香油をつけた跡もなく、色の悪いたるんだ皮膚と相まって、薄汚れたような風貌は見る者に不快感さえ与えるようで、藍高は彼からじきに目を反らした。
一言言葉をかけたきり、菓蘭はその後青耳には構わず、傾いた暖炉石の上で湯気を上げていた鉄瓶を取り上げ、いそいそと茶を入れ始めた。
「はい、藍高」
受け取った柿茶の器の中に、たらたらと甘い蜜が落とされる。
普段茶に蜜を入れない藍高は一瞬顔をしかめたが、黙って器に顔を埋めた。蜜を入れすぎた茶は、茶の香りも残らず、まるで湯で薄めた蜜を飲んでいるようだった。それでも雪の中の狩で冷え切った身体に、その熱は心地良かった。
長居は出来なかった。この家に馬小屋など無かったし、いくら日の射す午後と言えど、雪の中にいつまでも馬を立たせておくわけにはいかない。
扉の外まで付いて来た菓蘭は、暫く感心したように藍高の馬を眺めていたが、ふいに彼の耳に口を寄せ、小さく囁いた。
「藍高、またおいでよね」
冬の最中であるのにうっすらと汗の匂いがした。耳がくすぐったくて思わず肩を振って除け、藍高は彼女の顔を見上げた。ふふ、と菓蘭が小さく笑うと、右の頬にぷく、とえくぼが沈んだ。
「また、余り物があったら回してよ‥‥ね?」
つと、菓蘭は両手で藍高の顔を包み込んだ。真っ白い右腕の内側に、菱形の紫色の痣があった。彼女が手を離すまで、藍高はじっとその痣をみつめていた。
菓蘭はまだ若かった。青耳のもとに嫁いだのは十四の頃だったのだとか、昔は随分と男共から人気があったのだとか、そんな話を聞いたのは後になってからだ。ふっくらとした顔に小さく上を向いた鼻、細く黒い目、小柄な女ではあったが、十三の藍高よりはまだ頭半分ほど背が高かった。決して美人というわけではなかっただろうが、口の右側だけを上げて笑う時にふいにへこむえくぼは、祭りで男共の話題に上ることもあった。当時も、彼女が女だてらに馬に乗り、平原まで狩に行くのは、獲物を得る他に理由があるからだ、という噂もあった。これもまた後から聞いた話だ。青耳は、怪我をした際に耳だけではなく他にも無くしたものがあると----だからあの二人には子供がいなかったのだとか。全て藍族に仕える口さがない女達のうわさ話で、どれほどの信憑性があったものなのか未だに解らない。
笹藪を掻き分けて狩から帰る藍高を、それ以来菓蘭はいつも待ちかまえていたように扉の前で迎え、ひらひらと手招きした。菱形の痣が一緒に揺れた。小さな兎や鳥の一匹を彼から受け取ると、寄ってお行きよ、と彼を小屋の中へ迎え入れた。藍高はその小屋で甘い柿茶の味を覚えた。質の悪い、おそらく自家製であろう木の蜜は、甘さの後には苦さを口の内に残して、飲み過ぎると気分が悪くなった。柿茶から立ち上る湯気の向こうにぼんやりと、青耳はいつも無言で一人将棋を刺していた。そして時折ゴホゴホと、乾いた咳をした。
まだ浅い春。その日扉の前に菓蘭はいなかった。変わりに青耳がノロノロとした仕草で薪を割っていた。家の外にいる彼を見るのは始めてで、藍高は驚いて馬の手綱を引いた。青耳は手を休め、藍高の顔を長いこと見つめていたが、やがて言った。
「メシを、喰って行け」
小屋の中にも菓蘭はいなかった。雪も浅くなったことであるし、平原に狩にでも行ったのだろうか。大鍋から立ち上る湯気で、小屋の中は居心地悪く湿っていた。かなり貧しい暮らしをしていただろうこの小屋で、大鍋に料理が作られているのを見たことはなく、食べ物を馳走になるのもこれが始めてで、青耳が黙って木の器によそった汁物を、藍高は興味深げに見つめた。うすい茶色の汁の中に、白い肉がぷくぷくと浮いている。
「喰え」
青耳は彼の向かいに座ると、酒を飲み始めた。
恐る恐る木の器に口を付けた藍高は、驚いて顔を上げた。
「青耳、これウマイ。何の肉?」
不思議な、溶ろけるような味の煮汁だった。余程脂肪の強い肉を使っているのだろうか。汁気の多い肉は、噛むまでも無く口の中で崩れた。藍高は男の顔を見上げた。青耳は痩せた顔をうつむけたまま答えなかった。
「何だろうな‥‥。兎でもないし」
一人ごちた藍高に、青耳は不機嫌に呟いた。
「何だってイイだろう。さっさと喰え。肉はまだまだあるんだ」
乱暴に酒をあおった彼は、だがゴホゴホと咳き込んで半分ほどを机の上にこぼしてしまった。
「青耳、酒やめなよ。茶入れてやるから」
椅子から滑り降り、そのまま差し掛け小屋へ入ろうとした藍高の肩を、思わぬ素早さで青耳の右手がつかんだ。痩せた身体からは思いもよらぬような強い手の力だった。
「入るな!」
「え?」
「オレの家の中をウロウロするんじゃねェ‥‥帰れ!」
「青耳?」
「さっさと帰れ、小僧!」
驚きのあまり無抵抗な藍高を、青耳はそのまま扉まで引きずって行った。突き飛ばされるように外に出た藍高の口の中には、まだ肉片が残っていた。じ、と噛みしめると甘い肉汁が口一杯に広がった。閉まった扉を遠慮がちに一度叩いてみたが、中からの応えはなかった。
菓蘭がいなくなった、と聞いたのはその夜のことだった。
「男と平原に逃げた」
藍高の父親の所へ報告に来た青耳は、言葉少なにそう語ったらしかった。だが逃げた二人の姿を見たものは、麓にたむろする雑種の中にもなく、どうやって人目を忍んで逃げおおせたものか、と猫達は皆首を捻った。菓蘭と忍び会っていたと言われる雑種が誰であったのかも結局明確には出来ず、どこを探していいかも解らぬまま、彼女はろくに捜索もされずに捨て置かれることとなった。そもそも青耳に彼女を捜すつもりがさっぱり無いらしく、藍の捜索隊に加わりもせず、彼は相変わらず小屋に閉じこもっているらしかった。
菓蘭は帰って来なかった。
その頃から、藍高は夢を見るようになった。
薄茶色の汁に、ぼう、と白く浮かぶ肉。
夢の中で甘い肉を噛みしめる。とろけるまでに煮えた肉の表面に、菱形の紫の斑点が浮いている。口に含んで歯を立てると薄皮が弾け、肉の味に混ざり、甘い蜜が口一杯に広がって泡のように溶ける。ああ、なんだ。あの紫の斑点の中身は蜜だったのだ。
しつこい甘みと、うっすらと苦みが口に残る。蜜は唇を滴って顎にまで流れる。指先でぬぐって舐める。身体がぼうと熱くなり、口の中が蜜に痺れ、藍高は夜明けに目を覚ます。
紫の闇に、オレンジを掃いたような夜明け。
生ぬるい大気の中に横たわりながら、自分の身体に初めての春が訪れたのに、藍高は気付く。
夢は形を変え色を変え、それから何度も彼の眠りを妨げた。歳を経る毎に回数こそ減ったが、忘れた頃に再び彼は眠りの中で、白く甘い肉を噛みしめた。
青耳はあの小屋で、それから二年ほどは生きていたように思う。それから藍高が彼の元を訪れることは無かったし、彼がいつ死んだのかもよく覚えていない。
口笛の合図が聞こえ、藍高は振り向いた。紫紺の合図だ。返事を聞くのももどかしい様子で、大柄な黒猫が一人部屋に入ってくる。気付けば部屋は既に薄暗がりの中にあって、藍高は慌てて蝋燭に灯を灯した。
「藍高、菓蘭が帰ったぜ」
暖炉の上に灯りを移そうとしていた藍高の手が止まる。
「菓蘭‥‥?」
「そうだよ、覚えてるか?」
これは物思いに耽っていた、白昼夢の続きだろうか?
「ああ、覚えてるさ‥‥確かに本人か?」
「間違いねェよ。本人もそう言ってるし、顔だってそう変わるモンじゃねェ」
「そうか‥‥」
「男が平原で死んだらしいぜ」
ふん、と紫紺は鼻を鳴らした。
「一人じゃ生きて行けなくなったから帰って来やがったんだ。藍の直系を裏切るなんてマネしておきながら、今更勝手なヤツだよな」
藍高は苦笑した。当時は青耳の事を、藍の直系として扱っているヤツなんて誰もいなかった。
「そうか‥‥良く生きてたなァ」
「まあな‥‥もう十年か?」
「‥‥どんな様子だ?」
「元気なもんだぜ。だけど、まあ、なんつーか歳喰ったよな。当たり前だけどよ」
紫紺は笑った。
「ムカシは結構イイ女でな。青耳がアレだったからよ、春なんかにゃ、こっそり小屋から呼び出すヤツもいたみたいだけどよ。平原で十年も暮らしてみろよ‥‥まあ、藍高はあんま覚えてねーだろ菓蘭なんて。オマエまだガキだったろ?」
「まあな」
「それで、どーする」
「菓蘭か?」
「今更、藍族にオカエリナサイ、ってやるワケにもいかねーんじゃないの?」
「そうだな‥‥剣にも聞いてみねェとなァ」
「今はとりあえず俺の小屋においてっから。明日にでも挨拶によこすぜ」
「ああ、頼む」
急ぎ足で紫紺が帰ってからも、藍高はそのまま窓際から動かなかった。
「菓蘭、か」
そっと呟いてみる。
この名前には魔法がかかっていた。口にしてはいけない魔法だった。だが、その魔法は今跡形もなく解け、消え去った。
自分の肉を一枚削がれたような、妙な感じがした。
それではあれは何の肉だったのだろう? あの溶けるような味は。まだ彼が知らない森の獣か、それとも魚か、鳥か------。いや、案外ただの兎や雷鳥だったのかもしれない。あの味は、肉の味ではなかったのかもしれない。朽ちかけた小屋の味。疑惑の味、熱の味、溶けかけた雪の味、浅い春の味か------。
今自分が矧がれた肉の一片を、幼かった自分が口にしたのかもしれない。
舌の上に不思議な甘みと苦みが一瞬蘇り、やがてその味が記憶の底に永遠に消え去るのを、藍高は惜しむとも喜ぶともつかぬ気持ちでただ感じていた。
夕餉の支度が出来たと、女が彼を呼びに来た。藍高は一度だけ窓の外を振り返った。朽ちかけた小屋がここから見える筈もなく、自分でも何故振り向いたのかも解らなかった。
小屋は遠すぎた。もうあれから随分の月日が流れたのだ。
完
初の平原番外編を書いてみました。
平原出版マイ記念 + 志麻ケイイチさんの [
時無草紙
] 企画、「お料理ファンタジー小説」 参加作品として書かせて頂きました。
「平原」の番外編は書かないつもりでいたのですが、志麻さんの楽しそうな企画につられて、嬉々として書いてしまいました。お楽しみ頂けましたら幸いです!
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